一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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最近の拾い読みから(161) ―『歌舞伎という宇宙―私の古典鑑賞』補遺

2007-06-20 03:42:58 | Book Review
前回、渡辺保『歌舞伎という宇宙―私の古典鑑賞』をお勧めしましたが、これ傑作といっても過言ではないんじゃないかしら。

それでは、なぜ傑作かという理由を。

その1は、「あとがきに代えて―または歌舞伎の見方」にあるように、歌舞伎の本には珍しく「理性的な見方」をしているから(多くの書物は「感性的な見方」をしている)。
「この本は、その二つの見方のうち、理性的な見方を意識的に構築したものである。なぜそうしたかといえば、歌舞伎というものを、もう一度演劇として裸のまま見直したいというつよい欲求が、私のなかにあったからである。この欲求が私にうまれたのは、歌舞伎を含めて演劇というものは一つだという考え方があったからだ。(中略)私にはその(歌舞伎の)特殊性をみとめつつも、歌舞伎を演劇一般のなかに位置づけることが是非とも必要に思えた。そうするためには、歌舞伎の普遍的な側面――人間のドラマという側面を見なければならない。しかし、歌舞伎の人間の姿はその見事な様式のなかに埋没してしまっている。」

その2は、文章がなかなかよろしいこと。
本ブログでも、渡辺保の作物(さくぶつ)を、『千本桜―花のない神話』と『歌舞伎―過剰なる記号の森』と2度ほど取り上げてきましたが、この2冊では、その文章に今一つ感心しなかった。
しかし、この歌舞伎作品評論集には、なかなかと思わせる文章が、結構あります。

分りやすい例として、瀬川如皐の『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』の項目を挙げておきましょう。
「与三郎は、その女のことをはじめ人の話できいた。
深川の芸者富吉が落籍(ひか)されて土地の親分の妾になっているという。与三郎は富吉なら知っていると思った。深川ではわりと名の通った妓(おんな)だし、一、二度は座敷で出逢っているかも知れない。別に馴染(なじみ)の女という程ではないが、知らぬ仲でもない。木更津のようなところへ来ていると滅多矢鱈(めったやたら)に江戸の人間がなつかしいから、富吉にも一度折があったら逢ってみたい、逢って江戸の色街の遊びの話でもしてみたい。そう思ったが、別にそれだけのことであった。それからしばらくあとに、その女に出逢い、そのために自分の人生が急転直下、破滅に向かうほどのことがおきようとは想像もしなかった。」
ストーリーの紹介と同時に、「普遍的な側面――人間のドラマという側面」を表に出した表現になっていることに注意していただきたい。けっして、江戸時代に特殊な心理などは、そこにはありません。

というような理由から、小生は、本書を「傑作」と評価しているのであります。