一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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ノン・フィクションの文体(1)

2007-06-15 02:22:54 | Essay
前回、山崎光夫『ドンネルの男 北里柴三郎』を取り上げて、「ノン・フィクション系の文章」と述べました。
その時には、特に「ノン・フィクション系の文章」がどのようなものであるかについて、詳しいことには触れませんでした。
そこで、今回は、「ノン・フィクション系の文章」あるいは「ノン・フィクションの文体」とはどのようなものかを考えてみようというわけです。
「かくて少年条太郎は孜々として学業にいそしんでいたが、ここに思わぬ災難が襲って来た。肋膜炎にかかったのである。それは明治14年の厳寒の頃で、さすが剛毅の少年も悶々の情を抱いて病床に幾十日を呻吟せねばならなかった。」(小島直記監修『山本条太郎』)
これが小説となると、おそらくドラマティックな展開で描写されることになるのでしょう。
そして、引用した文章では明らかにされていない病因なども、学業に根を詰めたことと関連して描かれるものと思われます。

けれども、ノン・フィクション系の文章では、その手の想像に関しては禁欲的でならなければなりません。もし想像を述べるのなら、
「これは想像ではあるが、継母てるはかなり気難しい人であったそうである。」(小島監修、前掲書)
と明示するのが普通でしょう。

つまりは、
 (1) 引用されるテクスト(文章とは限らず、インタヴュー、談話なども含めて)に依存する度合が大きい。
 (2) その引用に当たっては、自分の意見ではないことが、明示される。
「だが、別のところで彼は、次のように語っている。」
「次のように自分の主張を再現する。」
「これは佐野の言である。」
以上は、手元にあった本田靖春『〈戦後〉―美空ひばりとその時代』からの例です。
つづく


本田靖春集(3)
『〈戦後〉―美空ひばりとその時代/疵―花形敬とその時代』
旬報社
定価:3,990 円 (税込)
ISBN978-4845107186