一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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榎本艦隊の「謎」 その2

2007-06-22 00:33:55 | History
「三十万両」の行方については、出典からの引用を挙げて、綱淵謙錠『航―榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』で詳細に述べられていますので、そちらに考証は譲りましょう。
いずれにしても、大坂城の「三十万両」は、〈富士山丸〉あるいは〈長鯨丸〉
で、江戸に運び込まれました。その内、三万両(一説には三千両)は、横浜のオランダ領事ボードウィンに預けられ、それがオランダ留学生たちの費用となった、ということです。
ですから、十八万両の大部分が、そっくりそのまま榎本たちの軍資金になったことはないのです(綱淵は、大坂城にあった金貨自体が偽物であると、大胆な推理をしているが、それでは、オランダ留学生のために使用された金銭の出所はどこということになるのだろうか?)。

この話はこれまでにして、次に、〈開陽丸〉の江刺座礁の際、榎本は艦上にあったかどうか、という問題。
吉村昭『幕府軍艦〈回天〉始末』では、
「風波はおさまらず、〈開陽〉に乗る榎本をはじめ乗組員は艦内にとどまっていたが、ようやく十九日になって、わずかの兵器をたずさえて岸にあがることができた。」
と述べられており、座礁(十一月十五日夜から翌早朝にかけて)時には、榎本は艦上にあったように書かれています。
これは、おそらくは『雨窓紀聞』(小杉雅之進著)に、
「之(これ)に加(くわう)るに連日の暴風激浪にて、榎本を始め船に在るもの上陸するを得ず、漸く第三日に至り聊(いささか)風の凪間を計(はかり)、僅(わずか)に兵器を携(たずさえ)、岸に達するを得(う)」(原文は、漢字カタカナ混じり文)
を根拠にしているのでしょう。
小杉は、〈開陽丸〉蒸気方ですから、その場にいての証言です。

しかし、一方、〈開陽丸〉水夫頭見習の渡辺清次郎も回想録を残している(『渡辺清次郎回想録』)。
これによると、
「渡辺はまず、開陽丸が江刺に入港すると、『榎本、沢の正副艦長も上陸したが、私は船に残った』」(綱淵、前掲書)
と証言しています。

さて、どちらの証言が正しいのか、小生には判断するだけの資料はありませんが、次のような言明があることをお伝えしておきましょう。
「誰が開陽丸に残り、誰が上陸したかは諸説がある。榎本は上陸しなかったという説もあるが、これはあとからの創作である。
艦長の沢も一緒に上陸した。」(星亮一『箱館戦争』)

「沢はこのとき、前述したように、榎本と一緒に陸上にいた。したがって、沢は座礁時における開陽艦上の実際の光景は目撃していないはずであり……」(綱淵、前掲書)



星亮一(ほし・りょういち)
『箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち』
三修社
定価: 1,890 円 (税込)
ISBN978-4384041019