明治維新以降、依然として身分的差別や身障者差別など、国内での差別構造は変らないものの、外国人差別については、様相が変わってきます。
それは、曲がりなりにも近代国家が成立して、外国人に対する差別意識を国家がある程度操作できるようになったからです。
なぜなら近代国家=「民族国家」において、「民族という政治的共同体は想像される」(関曠野『民族とは何か』)存在であり、ベネディクト・アンダーソンによれば、
だからこそ、「ケガレの感覚」を刺激するような情報操作を国家が行える。
明治維新当初は、まだ西欧人に対する差別意識が残っていたものの、西欧文化が滔々と流れ込むにしたがって、急激に「西欧=進んだ地域」「西欧人=進んだ人びと」という逆差別意識に変ってきます。
一方、日清戦争を通じて、アジアの人びとに対する差別意識が「発生」する(江戸時代は、中国=「先進国」という意識が儒者を中心にあった。同時に、中国に次ぐ地域としての朝鮮朝―「李氏朝鮮」という意識も存在した)。
つまり、「西欧=進んだ地域」の裏返しとしての「東洋=遅れた地域」という考え方である。その端的な表れが「脱亜入欧」論である(従来は福沢諭吉の言説と思われてきたが、近年の研究によれば、福沢の弟子による言論であるとの説が有力)。
それでは、明治以降、想像力がどのように働いたかを、次回から見ていきましょう。
●今回の参考図書
関曠野
『民族とは何か』
講談社現代新書
定価:本体756円+税
ISBN4061495798
それは、曲がりなりにも近代国家が成立して、外国人に対する差別意識を国家がある程度操作できるようになったからです。
なぜなら近代国家=「民族国家」において、「民族という政治的共同体は想像される」(関曠野『民族とは何か』)存在であり、ベネディクト・アンダーソンによれば、
最も小さな国ですら、その成員は大半の自分の同胞を知ることも彼らに会うことも、彼らについての話を聞くことさえないだろうが、それでも彼らが一体であるというイメージは各人の心の中に生きているからである。そして、そのイメージを作るのは、
生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーションの技術(印刷)そして人類の言語が多様であるという不可避な事実の間の半ば偶発的だが爆発的な相互作用だったのである。そこにあるのは、もはや「ケガレの感覚」によるものだけではなく、国家社会全体のシステムによるものとしての外国人差別意識だったのです。
だからこそ、「ケガレの感覚」を刺激するような情報操作を国家が行える。
*アーネスト・ゲルナーは『民族とナショナリズム』で「ナショナリズムとは、もともと存在していないところに“国民”を発明することだ」まで言っている。その具体的事例を挙げてみましょう。
明治維新当初は、まだ西欧人に対する差別意識が残っていたものの、西欧文化が滔々と流れ込むにしたがって、急激に「西欧=進んだ地域」「西欧人=進んだ人びと」という逆差別意識に変ってきます。
一方、日清戦争を通じて、アジアの人びとに対する差別意識が「発生」する(江戸時代は、中国=「先進国」という意識が儒者を中心にあった。同時に、中国に次ぐ地域としての朝鮮朝―「李氏朝鮮」という意識も存在した)。
つまり、「西欧=進んだ地域」の裏返しとしての「東洋=遅れた地域」という考え方である。その端的な表れが「脱亜入欧」論である(従来は福沢諭吉の言説と思われてきたが、近年の研究によれば、福沢の弟子による言論であるとの説が有力)。
それでは、明治以降、想像力がどのように働いたかを、次回から見ていきましょう。
〈以下、「妄想」は確実につづく〉
●今回の参考図書
関曠野
『民族とは何か』
講談社現代新書
定価:本体756円+税
ISBN4061495798