一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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人間のストーリー/プロット変換機能について(15)

2005-07-22 00:12:07 | Essay
閑話休題(あだしごとはさておきつ)。

日本の想像力の基本に「ケガレ」というものがありそうです。

現在、網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫)を読んでいますが、どうやら、そのように思えてきた。
それが、本稿の主題である「人間のストーリー/プロット変換機能」とどのように関わりがあるかは、全編を読み終えてから改めて述べたいと思います。けれども、途中まで読んだ状態での感想は、以上のようなものでした。

それでは「ケガレ」とは、どのようなものか。
「ケガレとは、人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部におこる畏れ、不安と結びついている、と考えることができる」
と網野氏は言っています。

「ケガレ」に近い、タブーに類する感覚は、どの社会でもありうるかもしれません。
しかし、日本特有のように思えるのは、
「ケガレが感染すると考えられていた」
ことでしょう。

本書に、このような記述があります。
「たとえば、垣根や門などで囲われた閉ざされた空間で、死穢(しえ)や産穢(さんえ)のようなケガレが発生しますと、その空間のすべてが汚れた状態になり、そこは甲穢になります。ところが甲穢がおこっていることを知らないで、ある人がその空間にはいり、そのまま自分の家に戻りますと、その人の家はまた穢れてしまう。
これが乙穢ということになりますが、乙穢の場所に来た人が、また知らないで自分の家に戻りますと、そこは丙穢になる。」

このような「伝染するケガレ」が、近代になって衛生思想/観念と結びついたことは、見やすいことでしょうが、今は、別の問題を考えます。

どのような想像力が、「伝染」という因果関係を生んだか、という問題です。
ここにも、本稿の(1)から述べている、独立した2つの事象に因果関係を生む想像力―「人間のストーリー/プロット変換機能」が働いているようなのです。

前述したように、全編を読み終えてから改めて述べるつもりですので、ここでは問題提起だけを。

〈以下、「妄想」は確実につづく〉