一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『福沢諭吉の真実』を読む。(3)

2005-07-29 00:01:47 | Book Review
それでは「大正版」「昭和版」『福沢諭吉全集』の編纂に携わった石河幹明は、どのような人物であったのか。

安政5(1859)年、水戸藩士の息子として生まれる。年齢では、福沢の24歳年下ということになる。明治維新後、水戸にできた学塾〈自強舎〉で、〈水戸学〉的色彩の強い学問を学ぶ。当時の旧友には、「時事新報」編集部に勤めた後、実業界に転じた高橋義雄(箒庵)がいる。師範学校内の中学予備校(茨城中学)から、慶応義塾に学び、卒業後の明治18(1885)年、福沢の主宰する「時事新報」に入社。
以後、一貫して「時事新報」の編集に務め、大正11(1922)年、主筆の座を降り退社する。

以上が、「時事新報」を辞めるまでの略歴であるが、それでは、福沢からはどのように評価されていたのだろう。
「八八年頃までの福沢の彼(石河)に対する評価は非常に厳しい。中上川(彦次郎。福沢の姉の息子。すなわち福沢の甥)宛書簡には、『石河はまだ文章が下手にて過半は手入れを要す』(八七・八・四)や『石河はあまりつまらず』(八八・八・二七)などとある」
それでは、誰が論説記者として高く評価されていたかというと、前述の高橋と、これも石河と同郷の渡辺治である。
「水戸の渡辺高橋は両人共文筆達者なり(八三・一一・二四)」
「新聞の社説とて出来る者は甚少し。中上川の外には水戸の渡辺高橋又時としては矢田績が執筆其他は何の役にも立不申、不文千万なる事なり(八四・二・一)

それでは、なぜ石河が主筆の座に就くようにまでなったのか。
それは、ライヴァルが次々に退社していったからに過ぎない。

まずは中上川が実業界に去り、それに次いで高橋も退社。渡辺は政界へ進出すべく、これも退社。
この間、新たに入ってきた有望な菊池武徳、北川礼弼らも、実業界へ転身していく。
彼ら(石河の他、中上川、高橋、渡辺、菊池、北川ら)が、「時事新報」の論説における「吾輩」なのであった(「それが福沢自身を指すと誤解されやすいのだが、この『吾輩』とは、形式的にはその時々の主筆の一人称である」)。