一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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人間のストーリー/プロット変換機能について(16)

2005-07-23 00:25:05 | Essay
前回は「伝染するケガレ」に見られる、人間の想像力―「ストーリー/プロット変換機能」について問題提起をしました。

ここには「差別」という社会現象が生れます。
特に、今回は、この国の人びとがもつ外国人差別について。

生命科学者の中には、「内集団・外集団」を分け、外集団に対して攻撃的な態度を取るのは、人間という生物のもつ「根深い」性向である、との見解があるようです。
柳澤桂子という生命科学者の文章を引けば、
「人はどこにいても集団を形成し、集団のメンバー同士特別な感情を持ち、外部の人間に対して攻撃的になる」(「根深きもの、それが戦争」)
とのこと。

これが生物学的な原因によるものなのか、それとも別の原因が強いのかは、しばらく置くとして、「差別」の構造自体は、この文章が言い表しているでしょう。
「差別」を生む原因であると、その集団によって考えられる/感じられる「差異」は、この国の場合、「ケガレ」に関するものであることが多いのではないか。

ここでは、分り易い外国人差別を考えてみましょう。
ゼノフォビア(外国人嫌い)は、どの国でも多かれ少なかれありますが、この国では、江戸時代末にそれが異様な高まりを見せた。
いわゆる「攘夷運動」を極端な突出として、その裾野には好奇心とは裏腹な外国人嫌いがあったことは言うまでもないでしょう。
いわく、
「奴らは不浄な獣の肉を常食にする」
いわく、
「奴らは人間の血を啜って食事をする」(赤ワインの誤認)
などなど。
そこから「神州」の地を、不浄な(ケガレた)西欧人に踏ませるな
という「攘夷運動」までは、ほんの一歩の距離もない。

以上のような外国人差別は、必ずしもすべてが無知に根ざしたものではないので、正しい知識を普及させれば解決するというものではありません(知識というより、「ケガレ」の感覚によるところ大だから)。
それが、明治初期まで続いたことは、熊本の「神風連の乱」を見れば、容易に理解できるところ。
西洋渡来の文物まで拒否するところから、刀や槍のみで蜂起した頑迷固陋さを笑うことは容易いが、そのような心性は、ほんの六十年前まで生きていたし(竹槍で「鬼畜米英」に対して本土決戦を挑もうとした!)、今日も生きていないと否定することはできますまい。

*『水師提督ペルリ之肖像』(神奈川県立歴史博物館蔵)。江戸時代末期、民衆の抱いたゼノフォビアを示す肖像画。

〈以下、「妄想」は確実につづく〉