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明智光秀は生きていた? 将軍・家光の秘密と暗号から、天海=光秀説に迫る 202312

2023-12-15 23:47:00 | 気になる モノ・コト

明智光秀は生きていた? 将軍・家光の秘密と暗号から、天海=光秀説に迫る
  和楽Web より 231215  辻 明人


 織田信長死す……。明智日向守光秀(あけちひゅうがのかみみつひで)が主君の信長を討った本能寺の変からわずか11日後、光秀は羽柴秀吉に敗れ、戦場から落ち延びる途中、農民に討たれたといわれます。
 しかし一方で、光秀は死んでおらず、後年、徳川家康のブレーンとなった僧侶・天海上人(てんかいしょうにん)こそが光秀その人である、という不思議な説が存在します。
 もちろん歴史学者は「取るに足らない俗説」として切り捨てますが、ではなぜ数々の奇妙な伝承が今も語り継がれているのでしょうか。本記事では天海=明智光秀説を検証しつつ、その謎に迫ります。

大河ドラマ『麒麟がくる』最終回では、光秀らしき人物(?)が馬にまたがって疾走する衝撃的な終わり方でした。あれは、夢か幻!?と思いましたが、生存説があったのですね......。(瓦谷登貴子)

⚫︎坂本の明智光秀と天海
 比叡山の麓、滋賀県大津市下阪本3丁目。琵琶湖畔に、小さな公園があります。「坂本城址公園」。名前が示す通り、ここには戦国時代、織田信長の重臣・明智光秀が居城とした坂本城がありました。
 城は湖に突き出した「水城」で、本丸などの中心部は現在、琵琶湖底に眠っており、渇水した時期などに石組みを確認できます。また坂本城跡から北西に2km余りのところにあるのが、明智光秀ゆかりの西教寺。境内には光秀の正室をはじめ、明智一族の墓が佇んでいます。

 まさに明智光秀のお膝元ともいうべき坂本ですが、坂本城跡と西教寺のほぼ中間、城跡から1km余りのところに滋賀院(しがいん)という寺があります。寺を開いたのは、慈眼大師(じげんだいし)こと天海僧正。徳川家康のブレーンを務めて「黒衣(こくい)の宰相と呼ばれた、南光坊(なんこうぼう)天海です。
 そして滋賀院のすぐ西隣には天海の廟所(びょうしょ、霊を祀る場所)である「慈眼堂」が建ち、さらに西南方向には天海創建の日吉東照宮が鎮座します。

「なぜ明智光秀が拠点とした坂本に、天海の廟所があるのか? まるで坂本城落城の際に命を落とした、明智一族や家臣を鎮魂するためのようではないか。天海が明智光秀であるという説は、本当なのか?」

 坂本で天海の廟所・慈眼堂を訪れた時に、私はそう思わずにはいられませんでした。明智光秀と天海。2人とも生涯に、謎の部分が少なくないといわれます。果たして、両人が同一人物だったという可能性はあるのか。まずは、光秀の最期の謎から検証してみましょう。

⚫︎光秀は天正10年に死んだのか
  通説の光秀の死
 天正10年(1582)6月13日。本能寺の変から11日後。京都府南部の大山崎町付近で大きな戦いが行われました。山崎の合戦です。
 本能寺の変を知って、毛利軍と対峙していた備中高松城(岡山市)から急ぎ戻ってきた羽柴秀吉の軍勢と、それを迎え撃った明智光秀軍との戦いでした。
 この時、秀吉は「信長公は無事である」というニセの情報を広めて、光秀側に軍勢が集まりにくくしたといわれます。結果、山崎の合戦で秀吉に敗れた光秀は、いったん北方の勝龍寺城(長岡京市)に入りますが、城の規模が小さく、敵を迎え撃つのが困難なため、その夜、少人数の部隊に分かれ、敵の目をかすめて脱出を図りました。

 少数の供回りとともに城を出た光秀は、下鳥羽から山科方向に向かいます。おそらく居城である近江(おうみ、現在の滋賀県)の坂本城を目指したのでしょう。ところが山科の小栗栖(おぐるす)の竹やぶの中で、光秀は潜んでいた農民の竹槍に腹を突かれ、致命傷を負います。死を悟った光秀はその場で自刃、家臣は首を付近に埋めて、立ち去りました。その後、農民たちが首を見つけて秀吉のもとに持参し、秀吉はそれをさらし首にして、光秀を討ったことを天下にアピールしました。これが光秀の最期について、一般的に語られる通説です。  光秀は小栗栖の竹やぶで討たれたという

⚫︎数々の疑問点
しかし、この光秀の最期については、いくつかの疑問点があります。

1.なぜ光秀だけが討たれたのか。少数とはいえ大将の光秀直属の部隊であり、選ばれた精鋭が護衛していたはず。にもかかわらず、みすみす大将の光秀が農民に討たれ、一方で光秀以外の武将が討たれた話が伝わっていないのはなぜか。

2.自刃した光秀の首を、重臣の溝尾庄兵衛茂朝(みぞおしょうべえしげとも)が現場近くに埋めて立ち去ったのはなぜか。そもそも家臣が、大切な主君の首を持ち帰らずに、その辺に埋めて立ち去るだろうか。また、農民たちが掘り出して、秀吉のもとに届けることも当然予想できたはずで、溝尾庄兵衛の行動は不審といわざるを得ない。

③農民が持ってきた首を、なぜ秀吉は光秀の首だとすぐに認めたのか。土に埋めてから、どのぐらいの時間が経っていたのかは不明だが、現在の暦で7月初めのこと。首は傷んでいただろう。はたして光秀の首だと判別できたのか。また秀吉は、光秀の首を京都の粟田口、もしくは本能寺でさらし首にしたとされるが、その際、なぜか高い場所に首を置いて、見物人が近寄って確認できないようにしていたといわれるのはなぜか。

④光秀の首塚が京都周辺になぜ複数あるのか。秀吉のもとに渡ったはずの光秀の首だが、なぜか首塚がいくつもある。京都市内の東山区三条通白川橋下ルの首塚、京都府亀岡市の谷性(こくしょう)寺の首塚、そして光秀の娘玉(細川ガラシャ)がいた京都府宮津市の盛林寺にも、玉のもとに届けられた首を葬ったという首塚がある。なぜいくつもあるのか。

⑤光秀が死んでいなかったという伝説が存在する。小栗栖の竹やぶの中で農民に討たれたのは、光秀ではなく影武者を務めていた荒木山城守(あらきやましろのかみ)だった。光秀は故郷の美濃(みの、現在の岐阜県)に帰り、荒深小五郎(あらぶかこごろう)と名を変えて武儀(むぎ)郡中洞(なかぼら)村(現在の山県〈やまがた〉市中洞)に身を潜めた、というものである。光秀は関ヶ原合戦の年にこの地で没したと伝わり、光秀の墓もある。

⚫︎光秀が生きていたという仮説
以上の疑問点をまとめると、一つの仮説ができるかもしれません。

「小栗栖の竹やぶで影武者の荒木山城守は、主君光秀を逃がすためにあえて命を落とし、光秀が討たれたと見せかけた。荒木の首は農民に掘り出され、秀吉のもとに届けられた。秀吉はそれが光秀の首でないことに気づくが、かまわず『光秀を討った』とアピールすることで信長の仇をとった殊勲者となり、その後の織田家の後継者争いを有利にした。
 一方の光秀は、負傷など何らかの事情で坂本城に帰れず、身を隠しながら、もはや再起できないことを悟る。そこで複数の首塚の噂を広めて光秀討死を世間に印象づけるとともに、その後、美濃山中に潜んだまま、失意のうちに生涯を終えた」

 こうした伝説が残るのは、当時の人々が信長を討った光秀を、報われなかった「悲運の英雄」と受け止めていたからだ、と考えることもできるでしょう。
 ただ,これで伝説が完結してしまうと,光秀と天海の接点はない,ということになります。
確かに、どこで2人が繋がるのか?謎です。

 ▶︎瓦谷登貴子「黒衣の宰相」天海の実像
 

⚫︎諸国遍歴の前半生
 次に天海の生涯の概略をご紹介します。天海は天台宗の大僧正で、慈眼大師と称されます。徳川家康の政治的ブレーンを務め、「黒衣の宰相」とも呼ばれました。黒衣は僧侶を意味し、僧侶でありながら政治的影響力を持つ者のこと。ただ前半生は、不明な点が多いようです。

 天海は一説に天文5年(1536)頃、陸奥(むつ)大沼郡高田(現在の福島県会津美里町)の土豪・舟木氏の家に生まれます。ちなみに光秀の誕生年は一説に享禄元年(1528)ですので、天海は光秀より8歳年下です。
 幼い頃に出家し、随風(ずいふう)と名乗りました。諸国をめぐって仏教、学問を修行し、比叡山で修行中の元亀2年(1571)、35歳頃の時に織田信長の比叡山焼き討ちにあいます。その後、甲斐(現在の山梨県)の武田信玄に保護され、さらに故郷会津の蘆名(あしな)氏に招かれて、黒川城(のちの会津若松城)内の稲荷堂別当(いなりどうべっとう)となりました。蘆名氏が滅ぶと、武蔵川越(現在の埼玉県川越市)の仙波無量寿寺(せんばむりょうじゅじ)に入り、豪海(ごうかい)に師事して、名を天海に改めました。それが天正18年(1590)、55歳の時で、この年初めて徳川家康に会っています。師匠の豪海が亡くなると跡を継ぎ、無量寿寺を喜多院(きたいん)に改めました。

⚫︎独創的な宗教者
 天海が徳川家康のブレーンとなるのは、関ヶ原合戦の前年、慶長4年(1599)頃からといわれます。家康から信頼され、朝廷との交渉役を託されるとともに、比叡山延暦寺の再興にあたり、比叡山の南光坊を拠点としたため、「南光坊天海」と呼ばれました。大坂の陣のきっかけとなった方広寺の鐘銘(しょうめい)事件では、陰で暗躍したといわれます。
元和2年(1616)、家康が没すると、「東照大権現」という家康の神号決定に大きな役割を果たしました。また家康の遺体を駿河(現在の静岡県)の久能山から日光に移し、日光東照宮造営に関わります。さらに江戸上野に寛永寺を開き、山号を東の比叡山を意味する「東叡山」としました。そして江戸の都市計画にも深く関わり、陰陽道を用いた江戸を守るための呪術的な仕掛けを施したとされます。寛永20年(1643)に没。一説に享年108。

 以上が天海の生涯の概略ですが、明智光秀との接点はほとんどないことがわかります。また、日光東照宮造営や江戸の町に施した呪術からも、天海が独創的な宗教者であったことは間違いなく、武将であった明智光秀にそんなことができたかというと、率直なところかなり疑問ではないでしょうか。
 天海と光秀との接点は唯一、天海が比叡山で修行中に信長の比叡山焼き討ちにあい、その際に信長の家臣だった光秀と遭遇した可能性があるぐらいです。ただ、比叡山には天海=明智光秀説を裏づけるものとして、次のような痕跡があります。

・比叡山の叡山文庫に俗名を「光秀」といった僧の記録が残る
・比叡山の石灯籠に「奉寄進願主光秀 慶長二十年二月十七日」と刻まれている
(ちなみに慶長20年は、光秀が討たれた天正10年の33年後)

 これらの光秀が明智光秀を指しているのかどうかは、定かではありません。

⚫︎キーマン・春日局 明智光秀の家老の娘
 では、ほとんど接点のない明智光秀と天海の同一人物説が、なぜ生まれたのか。
実は天海=明智光秀説は、後世、庶民の間で生まれたものではなく、天海が没した直後から、幕府内部でささやかれていたともいわれます。私はそこに、キーマンとなる女性がいたと考えます。それが春日局です。春日局といえば徳川3代将軍家光の乳母で、江戸城大奥の基礎を作ったことでも知られます。かつて、大原麗子さん主演で大河ドラマにもなりました。

 春日局の本名は、斎藤福(さいとうふく)。明智光秀の筆頭家老であった、斎藤利三の娘でした。しかも斎藤利三の母親は光秀の叔母という説もあり、福には明智の血が流れていた可能性もあります。
 ではなぜ徳川将軍の側に、明智光秀にゆかりのある春日局こと斎藤福がいたのでしょうか。本能寺の変と山崎の合戦が起きた時、福はまだ4歳。父親の斎藤利三が羽柴秀吉に処刑されると、福は母親の実家の稲葉家に引き取られ、稲葉重通(しげみち)の養女となりました。

⚫︎福は応募して乳母になったのか
 やがて稲葉正成(まさなり)と結婚。稲葉正成は小早川秀秋の重臣でしたが、関ヶ原合戦の2年後、小早川秀秋の急死でお家断絶、正成は牢人となりました。通説ではこの時、徳川家に若君が誕生したので、京都で乳母を求める立て札を出したところ、福が応募して採用され、福は江戸城に入ったといわれます。この若君が2代将軍徳川秀忠の息子の竹千代、のちの3代将軍家光でした。

 これに対し歴史学者の福田千鶴(ふくだちづる)氏は、福が募集に応募したというのは事実ではなく、実際は徳川秀忠の正室の江に仕える奥女中として推薦された、と指摘します。
 福の養父・稲葉重通は豊臣秀吉の側近でした。一方、江は秀吉の側室・淀殿の妹で、秀吉の養女として徳川秀忠に嫁いでおり、江に仕える者として秀吉側近の養女である福はふさわしかった、というわけです。つまり福は最初、竹千代の乳母ではなく、奥女中の一人として江戸城に入ったことになります。

⚫︎家光の本当の母親は誰なのか
 さて、竹千代誕生の2年後、江は国松を出産。竹千代の弟です。幼い頃、内気な竹千代に対して国松は活発で、秀忠も江も弟の国松を溺愛しました。
 特に江は国松を後継者に望んだようで、悲観した竹千代は12歳の時に自殺未遂をし、乳母の福は見かねて駿府城(静岡市)にいた大御所の家康に直訴して、家康が竹千代を将軍後継者であると公認した、という話はよく知られています。それにしても母親の江は、なぜ竹千代ではなく国松を溺愛したのか。

 これについて歴史学者の福田千鶴氏は、次のように指摘します。国松は江の実の子だが、竹千代は実の子ではない。竹千代の実の母は、乳母の春日局こと福である、と。
 その裏付けとして、竹千代の正確な誕生日がなぜか公表されなかったこと、また誕生日から逆算すると時期的に江は上方にいたため、竹千代を身ごもることができないこと、当時の慣習として、正室に仕える奥女中に将軍の手がついても、生まれた子は正室の子として扱われたことがあり、何より江戸城紅葉山(もみじやま)文庫に伝わる記録「東照宮御文の写し」には、次のように記されています。

「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也 左大臣
 同御二男   国松君  御腹 御台所 駿河大納言忠長公也 従二位」

な、なんとそんな秘密が!!春日局の家光への入れ込みようが、実の親子だったからと思うと、納得できるような気もします。

⚫︎家光の「光」の字
 竹千代こと徳川家光が、春日局の子であるならば、家光は明智光秀の重臣斎藤利三の孫であり、明智の血が流れている可能性も高くなります。一方、弟の国松こと忠長の母は江。江の母は織田信長の妹・お市。つまり忠長には織田の血が流れています。
 竹千代、国松の兄弟はほぼ同時期に元服し、諱(いみな)を与えられました。諱を選んだのは徳川家康のブレーンの一人、僧侶の以心崇伝(いしんすうでん)。それぞれの諱の由来について崇伝は何も語っていませんが、興味深い文字を選んでいます。

 竹千代→「家光」 家は家康の家、徳川宗家の字。光は松平氏3代の信光から取ったと一般にいわれます。しかし、家光が春日局の子であるならば、話は違ってくるかもしれません。
 国松→「忠長」 忠は秀忠の忠、長は信長からでしょうか? なお忠長の顔立ちは、信長に似ていたと伝わります。

 春日局は、父親の主君・明智光秀を尊敬していました。京都妙心寺に「明智風呂」という蒸し風呂があります。光秀の菩提を弔うためにつくられたもので、毎年、光秀の命日に使われました。その風呂に用いる鐘を吊った鐘楼(しょうろう)を、春日局がわざわざ寄進しています。
 そんな春日局ですから、家光の光の字も、表向きは遠い松平の先祖から取ったことにしても、実際は明智光秀に由来するととらえていたのではないでしょうか。そして、そんな春日局の光秀への思いを理解し、かつ巧みに利用したのが、天海ではなかったかと想像します。

⚫︎天海の呪術  国家安康と神田明神
 天海は僧侶ですが、仏教だけでなく神道や陰陽道にも通じていました。陰陽道では人の名前(本名、諱)を「呪(しゅ)」の一つとします。名前はその人のありようを決めるもので、またその扱いが本人に影響を与えると考えます。たとえば、豊臣家が築いた京都方広寺の鐘銘「国家安康 君臣豊楽」。家康の名を安の字で断ち切り、豊臣を君主として楽しむという意味を込めた、という言いがかりをつけて、家康は強引に大坂の陣を起こしたと一般にはいわれます。
 しかし陰陽道では,名前を切るのは間違いなく「呪詛(じゅそ)」です。実際にこの文章を作った京都南禅寺の長老清韓(せいかん)は,意図的なものであったことを認めています。

 それほど名前が重要であると考えられていた当時、徳川家光の「光」の字も、明智一族ゆかりの春日局や天海が、光秀にあやかる意味で、後ろから手を回して以心崇伝に選ばせたのかもしれません。とはいえ春日局はともかく、なぜ明智にゆかりのない天海が、光秀にあやかろうとしたのか。私はそこに、天海の呪術的思惑が秘められていたのではと考えます。

 たとえば江戸の鬼門封じとして、天海は寛永寺をつくり、京都の鬼門封じである比叡山に見立てました。さらに神田明神を鬼門のライン上に移築して、やはり鬼門封じにします。
 神田明神は平将門を祀りますが、将門といえば平安時代に関東で反乱を起こして討たれ、その首はさらされていた京都から江戸まで飛んで帰った伝説のある、強力な怨霊です。
 天海は神田明神を江戸の総鎮守(そうちんじゅ)とし、将門を神として崇めて無念を晴らすことで、その恐るべきパワーをプラスに転じて、江戸の守りに活用しました。こうしたアイデアは、天海の得意とするところでした。

⚫︎天下人・明智光秀
 では、そんな天海の呪術から考えた場合、徳川家光の「光」の字にはどんな意味が込められていたのか。もちろん「光」の字は明智光秀を意味していたでしょう。そして家光が征夷大将軍となることで、明智光秀もまた疑似的に将軍として顕彰されました。
 美濃源氏出身の光秀の名が、謀叛人の汚名を払拭し、家光を通して名誉ある武家の棟梁の名になったわけです。

 さらに、「光」の字の影響はそれだけではありません。当時、将軍は「偏諱(へんき)」といって、求められれば名前の一字を大名に与えます。大名は将軍より一字を頂戴して、徳川への忠誠心を示しました。家光の場合は「光」の字です。
その結果、水戸黄門として有名な徳川光圀をはじめ伊達、前田、池田、浅野、毛利、黒田、島津など全国20の公家や大名がこぞって「光」の字を用いました。
 まさに光秀の光の字に全国の大名が従ったわけで、いわば家光を通じて光秀は天下人になったといえます。光秀にとって、これ以上ない名誉回復であり、顕彰でした。

偏諱を受けた公家・大名

⚫︎日光と明智光秀
 天海が光秀を顕彰するのは、もちろん目的がありました。平将門のパワーを江戸の鬼門封じに用いたように、明智光秀という悲運の名将の無念を晴らし、そのパワーをプラスに転じて、活用しようとしたのでしょう。私は、それは日光においてではなかったかと考えます。

 徳川家康は死後、いったん久能山に葬られ、その後、日光に廟所がつくられました。日光東照宮です。なぜ日光なのかは諸説ありますが、一言でいえば江戸の将軍を守るためのパワースポットになるからです。よくいわれるのは、家康の遺体を久能山から霊峰富士山を挟む位置にある日光に移すことで、不死(富士)の力を家康に付与した。また日光は江戸のほぼ真北にあたり、天海は東照宮に祀られる家康を、宇宙を司る北極星になぞらえて、江戸の守護神と位置づけた、とされます。

⚫︎日光東照宮と北極星

 さらに日光には、明智平(あけちだいら)という地名があります。元は明地平であったのを、天海が「明智の名を残す」と語って明智平に改めたといわれ、天海=明智光秀説の根拠の一つとなりました。私はこれもまた、天海が得意とする名前を用いた呪術ではないかと考えます。すなわち…。

 天海は光秀の名を日光明智平に暗号のように潜ませ、日光と結びつけることで、光秀のパワーが、徳川家にとって最も重要な東照宮の鎮座する日光を守るよう仕向けたのではないか。そして、こうした天海の明智光秀にこだわった呪術が、天海が光秀その人と幕府内で語られる噂の元になったのではないか、と私は考えます。

 天海が第27代住職となった川越喜多院には、かつて江戸城内にあった建物が現存しています。寛永15年(1638)に起きた火災で喜多院の建物が焼失したため、将軍家光の命により、客殿・書院・庫裏(くり)が移築されました。
 そのうち客殿は「家光誕生の間」、隣接する書院は「春日局化粧の間」といわれます。家光は記念すべき「誕生の間」と生母の「化粧の間」を、天海に与えました。明智の血を引くともいわれる光秀の重臣の娘福と、その息子家光。そして明智光秀を顕彰し、そのパワーを、徳川家の守護のために活用しようとした天海。光秀を軸にした3人の結びつきの強さが、のちに「天海=明智光秀説」を生み出したのかもしれません。

 本記事の内容は仮説の部分も多く、「天海はやはり明智光秀だった」という見方も含めて、他の解釈も十分に可能だろうと思います。皆さんは、どうお考えになるでしょうか。

📗参考文献:福田千鶴『春日局』(ミネルヴァ書房)、大野富次『明智光秀は天海上人だった!』(知道出版)、『異界 陰陽道』(徳間書店)他
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「“内もも歩き”をすれば、ひざは痛くなりません」名医が語る“肩こりにも効く正しい歩き方” 202312

2023-12-15 23:15:00 | 生活編

「“内もも歩き”をすれば、ひざは痛くなりません」名医が語る“肩こりにも効く正しい歩き方”
  文春オンライン より 231215  巽 一郎


〈ひざはナゼ痛くなり、歩けなくなるのか? 初診予約半年待ちの人気ドクターが教える“ひざ痛の治し方”〉から続く

 ひざが痛くなる原因は“歩き方”にあった――。ここでは初診予約半年待ちの名医が上梓した『100年ひざ』(サンマーク出版)より一部改変し、抜粋。肩こりにも効くひざが痛くならない“正しい歩き方”をご紹介する。(全2回の後編/前編を読む)

【画像】 正しい歩き方をしないと、こんな悪影響が…

⚫︎頭が前に出る「ニワトリ歩き」
 これまで僕は、1万4000人の変形性膝関節症の患者さんから「ひざの負担を大きくしてしまう生活習慣」があると教わってきました。そのひとつが、多くの患者さんに共通する独特な歩き方「ニワトリ歩き」です(1章「ひざの負担を大きくしている生活習慣」の項の図)。

 患者さんの歩き方を見て、その特徴から「ニワトリ歩き」と命名したのですが、大きな駅のコンコースに立って、通り過ぎる人を見ていたら、若い世代にも「ニワトリ歩き」の人がたくさんいて、愕然としました。

 現代はこの歩き方をする人が大変多くなっているから変形性膝関節症になる人が増えているというのが正しいのかもしれない──そう気づいてから、「ニワトリ歩き」を招く姿勢の崩れが、変形性膝関節症の大きな原因だとわかったのでした。

 頭が前に出ることが特徴的な姿勢の崩れ。そのまま歩くと、頭を前後に少し振ってバランスをとらなくては歩みを進められません。まさにニワトリのような歩き方でしょう? この歩き方はひざに負担を強いる、歩けなくなる「入り口」です。

 食事や仕事、生活動作の多くは「前かがみ」姿勢で行われます。日本人ならではの、手で器を持ち上げて皿の上に頭が迎えにいく食事のスタイルをはじめ、パソコン操作、台所仕事、掃除機かけ、裁縫、農作業、庭仕事……。僕が自分の1日を振り返ってみても、手を体の前方に出し、前にかがんでいる時間がなんと多いことでしょう。

 本来ならばヒトは、骨に寄りかかるわけでもなく、無駄に筋肉を緊張させることもなく、備わっている構造のとおりの姿勢で立つのがラクです。水をいっぱい頭蓋骨の中にたたえ、その中に脳みそを浮かべた頭の重さは平均約6~8kg。これがちゃんと西洋人のように肩の上にあれば、首と背、腰のS字カーブや骨盤などのおかげでバランスがとれ、無理なく頭を支えていられます(1章『とくに日本人に多い「姿勢由来」のひざ痛』の項)。

 ところが、重い頭が肩より前に出てしまったら、それを後ろから支える首の負担は2~3倍に増え、頭を後ろから支えている首の筋肉(僧帽筋)にのしかかります。背骨を支えているインナーマッスルである多た裂れつ筋きんにも余計な仕事をさせ続けることになるのです。そりゃあ、肩もこるわけです。

 頭が前に出ることの弊害は、上半身のこりだけではありません。

 前に行ってしまった頭とバランスを取るために、背中が後方へ出てきて、腰椎の前弯もなくなって猫背になります。

 猫背になると、腰椎と骨盤が後ろに傾きます。その骨盤につられるように大腿骨が外側にねじれ、ひざの関節も外を向き、いわゆるガニ股になってしまうのです。するとひざは伸ばしにくくなり、軽く曲がって、O脚になります。

 O脚になると、歩くときに足の外側で着地するようになり、つま先は上げにくくなる。何もないところでつまずいたり、こけるリスクも上がってしまいます。

⚫︎やってはいけない「ニワトリ歩き」を続けると…
 この状態で活動を続けていると内側ひざ関節に偏って負担がかかります。平地を歩くとき5倍、階段を降りるとき8倍かかるというその力が、内側ひざ関節に集中するのですから、内側の軟骨はあっという間に減ってしまいます。

 僕らが変形性膝関節症の患者さんの治療法を検討するとき、軟骨が少しでも残っていれば再生する可能性があるので、「軟骨がどれくらい、どこに残っているか」を調べます。すると、ほとんどの場合、内側が偏ってなくなっている(O脚変形)。関節軟骨が減るとは、均等になくなるわけではないのです。

 およそ90%の患者さんが、ひざの内側軟骨が減るO脚変形ですが、稀まれにひざの外側関節が減っているX脚変形の患者さんが来られます。

 6歳から12歳までの女性は、内股で歩き、自然のX脚であることが多いのですが、成長とともにまっすぐになっていきます。大人になってもX脚である人は、足が長い人、ひざのお皿(膝蓋骨)が高い位置(普通の人よりも上のほうにある)の人に多いです。X脚変形になるメカニズムの詳細は未だ不明です。

 一方のひざだけX脚変形になっている人では、その反対側の股関節が悪い人が多いです。

 股関節が変形していくと、股関節が悪いほうの脚は、反対側に比べて短くなります。股関節は足の付け根で、そこが変形してくると付け根がからだの上に移動していくからです。そうすると、股関節が悪くないほうの長い脚を、もう一方に合わせようとして、X脚になることがわかっています。

 そのようなケースでは、原因である股関節の治療を優先し、左右の脚の長さをそろえ、その間、ひざについては保存療法をして、股関節とひざ関節、両方を治すことが根本療法になります。

 ひざ軟骨の内側と外側が均等に減ってしまうのが、先にも説明した、関節リウマチという病気です。これは自分のからだではない異物を攻撃する抗体が、自分の軟骨を攻撃したために起こります。その原因は、からだを異物から守っている免疫がおかしくなった、もしくは、軟骨が変性して異物になったから攻撃した─そんな仮説が考えられていますが、今のところ原因不明です。

⚫︎9割以上の日本人がO脚になり、ひざの内側の軟骨が減っている
 日本では9割以上の人が「O脚(内反膝)」になってひざの内側の軟骨が減っています。そして5%くらいの人が「X脚(外反膝)」になってひざの外側の軟骨が減っていて、残りはリウマチによって、内側も外側も減っています。

 つまり圧倒的に、脚がO脚に変形して、ひざの内側の軟骨だけが減り、痛みを訴える人が多い、ということです。

 ちなみに初期では、O脚やX脚になっているかどうかはよく履いている靴のかかとを見てチェックできます。O脚の場合、外側に体重をかけて歩くため、外側ばかり偏って減ります。逆に、X脚では内側ばかり減ります。

 O脚やX脚の兆しが見られたら、姿勢の崩れや歩き方を改善し、ひざへの負担を減らすことが大切です。

 たとえ自覚はなくても、猫背や巻き肩、ストレートネックなど「姿勢の崩れ」があるなら、O脚になり、ニワトリ歩きになっている可能性が高いです。無意識にひざが「外側」に傾き、足の親指が浮いた歩き方になっていないでしょうか。

 また、X脚になっていて、無意識に「内側」に傾き、足の小指が浮いた歩き方になっている場合もあります。先述の「靴のかかとチェック」でそれがわかりますね。

 ニワトリ歩きを脱却してひざにいい歩き方へと変えていきましょう。

 本書でご紹介する歩き方は、姿勢を正し、O脚やX脚の改善に役立ち、ひざへの負担を軽減する好循環のきっかけになる歩き方ですから、ぜひマスターしてください!

⚫︎O脚さんは内転筋の使い方がポイント
 まずはO脚さんのための歩き方から。O脚で、ひざの内側関節にトラブルや不安のある人は「内転筋」という筋肉群を大いにはたらかせて歩きましょう。名付けて「内もも歩き」です。

 どのように歩くのか、くわしい歩き方は3章で写真とともに紹介します。

 ポイントは、歩く前に、座ったままひざに手を置き、体重をかけて“普段のひざの状態とは逆”の親指重心の練習をすること。足の小指を浮かせて着地するのを、まずは座った姿勢でやってみます。これで「からだを正しく使う」コツを感じてください。

 親指重心になるときはたらく筋肉が「内転筋」です。

 内転筋という筋肉群は文字どおり「内転させる筋肉群」で、内転とは太ももを閉じる動きであり、「股関節と連動して股を閉じる」ことです。大腿骨にくっついている筋肉群で、この筋肉群が弱ると大腿骨が外転(内転の逆、外側に開くこと)・外旋(外側に向かってねじれること)し、いわゆるガニ股になり、O脚が加速してしまいます。

 つまり、内転筋が弱る=太ももは外旋し、О脚コースへまっしぐらとなるわけです。

 さらに内転筋は、内臓を下支えする骨盤底筋群とも関連して骨盤を支えたり、姿勢を支える腹筋の活動も高めたりすることがわかっています。

 内転筋が弱ってしまうと、骨盤底筋群や腹筋にも悪影響があり、加齢に伴って増える尿もれ、脱腸、子宮脱などとも関係します。つまり内転筋は、中高年以降の筋トレの大事なポイントです。

 しかし、この内転筋は、鍛えにくいうえに、意識的に使わないと弱りやすい筋肉です。第3章の内転筋トレーニングを日常生活に入れてみてください。寝転んでできる方法ですから、隙間時間にお笑い番組でも見ながら、リラックスしてやってみてください。

⚫︎「ニワトリ歩き」から「内もも歩き」に変えよう
 意識的に内転筋を使って歩く。それは内転筋を鍛え、脱ニワトリ歩きをかなえ、さまざまなトラブル予防に通じる歩き方です。しばらくは意識的に練習する必要があり、いくらかぎくしゃくするかと思いますが、続けていればからだが覚えて、自然に歩けるようになっていきます。

 内ももの筋肉(内転筋)を使い、ひざを内側に入れることで、大腿骨と脛骨の間に隙間をつくって、親指側で体重を移動させて歩く歩き方が「内もも歩き」です。この歩き方は、変形性膝関節症の患者さんを診察していて、ヒントをもらって考えました。

 患者さんのレントゲン撮影で、「ストレス撮影」という方式で撮ると、内側の関節が開き、隙間が出ます。「ストレス撮影」とは、ひざをぐーっと押して撮るもの。外側からひざを押したストレス撮影の写真だけを見たら、変形性膝関節症ではない人、つまり軟骨の状態が正常であるかのようです。

 実際には押している力を抜くと元に戻り、内側の骨がまたぶつかってしまうのですが、外側から押せば隙間ができる! ならば、内ももを意識して使って、ストレス撮影のときのように隙間をつくって歩けば、軟骨の負担を減らせるはず! その発見で「内もも歩き」を考案しました。

 この歩き方で大腿骨と脛骨がぶつかって起こる微小骨折を防ぐことができれば、激痛はなくなります。

 そして、「足放り体操」によって再生した軟骨を減らさずに歩けます。

(巽 一郎/Webオリジナル(外部転載))
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「あの国」からの攻撃で日本の個人情報が大量流出...LINEヤフーのずさんな管理で9600万人が危険にさらされる 202312

2023-12-15 23:04:00 | ¿ はて?さて?びっくり!

「あの国」からの攻撃で日本の個人情報が大量流出...LINEヤフーのずさんな管理で9600万人が危険にさらされる
  News week より 231215  山田敏弘(国際ジャーナリスト)
「国民的インフラ」の開発は韓国ネイバー頼みだが TOMOHIRO OHSUMI/GETTY IMAGES
<44万人の個人情報流出で浮かんだのは、LINEヤフーが過去の反省を生かせていない疑いと、国外頼みの開発の危うさ。日本政府が「国民的インフラ」の手綱を握るべきなのか>

 日本で約9600万人が利用する通信アプリLINEが、サイバー攻撃による不正アクセスの被害に遭ったと11月27日に発表された。アプリなどの利用者44万件の個人情報が流出した恐れがあるという。

 もはや生活に欠かせない重要な通信インフラが国外から不正アクセスされた深刻な事態が明らかになったのだが、このニュースはそれほど大きな騒ぎになっていない。

 その最大の理由は、LINEが過去にも情報管理で世間を騒がせ、ユーザーがそれに慣れてしまったからだ。しかし、この問題を軽く見るべきではない。

 最初にLINEの情報管理が大々的に批判されたのは2021年3月のことだ。業務委託していた中国の関連会社の従業員が、日本のユーザー情報にアクセス可能だったことが判明。これを受け、外部有識者による調査報告書が「グローバルな事業運営を前提としつつ、適切な横のガバナンスを確立し強化していくこと」を提言した。

⚫︎サイバー攻撃を仕掛けたのは誰か
 ところが今年8月に再び「横」のガバナンス、つまり組織内部のつながり不足が露呈する。LINEの開発を担う韓国のネイバー社がヤフーの検索エンジンを利用するユーザーの約410万件の個人情報を利用者に十分周知せずに入手していたことが発覚。
 日本の規制に照らせば「安全管理措置に不十分」な行為であり、ヤフーは行政指導を受けた。10月にネイバーなどが大株主となり、LINEとヤフーの合併で新会社「LINEヤフー」が発足する直前だった。

 そして今回の不正アクセスである。10月9日以降に韓国のネイバー社を介してLINEヤフーへ不正アクセスがあり、日本のユーザー情報が盗まれた。ただ、報道の情報だけでは腑に落ちないことがある。

 まず、誰が不正アクセスをしたのか。総務省関係者は筆者の取材に対し、「攻撃者は中国だ」と指摘する。これだけでも深刻だが、さらに見逃されている重大な問題は、ネイバーがLINEの日本人ユーザー情報にアクセスできていること。だからこそ、中国の攻撃者が韓国のネイバーを介して不正アクセスできたのだ。

 21年3月の問題では、LINEが日本人ユーザー情報をネイバーのシステムに保存していたことが判明した。つまり日本の法律が届かない韓国で日本人の個人情報が勝手に利用され、日本の安全基準を遵守させることもできない状態だった。批判を浴びたLINEは、日本人のデータは全て日本のサーバーに移動すると発表している。

 ところが今回の件で今もネイバーが日本人のデータにアクセスできることが露呈した。さらにLINE関係者は「主要なプロダクトの開発は今もネイバーが関与していて、今回の報道以上にネイバーは日本のシステムにアクセスできる」と指摘する。

 その上、LINEヤフーは10月17日には不正アクセスを検知していた。日本では犯罪の不正アクセス事案だが、11月27日まで警察当局には被害申告をせず、総務省だけに相談していた。個人情報が大規模に流出しているにもかかわらず、だ。

 LINEとヤフーが合併した10月以降、ユーザーは両サービスのアカウントを連携するよう推奨されている。さらに新会社の子会社であるPayPayやZOZO、アスクルなども含め、今後さらに利用者が拡大していくと予想される。

 ユーザーが不安なくLINEやヤフーを使えるために、日本政府はもっと厳しい目でLINEと付き合っていくべきだ。さもないと、国境なきデジタル時代に自国民の安全は守れない。トランプ政権がTikTokを「国産化」しようとしたように、日本でもLINEの手綱を政府が握ることを議論するべきではないだろうか。

▶︎山田敏弘(国際ジャーナリスト)


💋行政の不作為の典型、セキュリティ意識0!
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🚶…天ヶ瀬ダム前↩️ 🚙…向島↩️ 231215

2023-12-15 22:01:00 | 🚶 歩く
🚶…右岸堤防道…朝霧通り…観流橋…紅斉右岸路🍁…山吹橋…第一志津川橋…白虹橋…左岸路…天ヶ瀬吊橋↕︎…左岸路…松嵐橋…白川浜橋…網代の道…喜撰橋…塔の島/橘島…橘橋…塔の川左岸🍁…平等院前…平等院参道…宇治橋…右岸堤防道…>
🚙〜トヨタC:(リコール対応)…向島ニュータウン五街区…向島図書館…向島中央公園…向島駅:西口…向島津田町…宇治川左岸堤防道…近鉄高架下…下ノ町…向島アイロード…トヨタC🚙〜城陽宇治線〜⛽️↩️〜宇治小倉引込線〜JR宇治駅北〜里尻〜宇治淀線〜宇治橋〜京阪沿〜>
🚶17296歩2kg

☁️:☀️白虹橋東西16:14℃ 暖か
 昼近く迄☂️で周辺山々に霧:幻想的景観!幸い散策時晴れ出す。紅葉もまだ観れる
 🚙をトヨタCにリコール対応で預け,待つ間近隣散策。(販売店さん応対大変) 天気よく,散歩日和化。運良く日没直後で帰宅。
 24号線沿大更地2ヶ所


醍醐山系の霧













紅斉右岸路


橘橋より塔の島



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