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北京史(二十一) 第五章 元代の大都(9)

2023年06月21日 | 中国史

郭守敬

第三節 大都の文化

大都の文化(続き)

 科学技術 元代の大都の科学技術の成果は、主に著名な天文暦算学、水利学者の郭守敬の名前と関連していた。元朝が中国全土の大統一を完成させて後、郭守敬らは暦法の改変を任じられた。郭守敬は提起した。「暦の根本は観測(測験)にあり、測定する器具は先ず何よりも天文儀(儀表)である。」金が使用した司天渾儀(星座の位置を測定する計器。渾天儀(こんてんぎ))は北宋の汴京で作られた古い物で、大都で用いると緯度が異なるので、正確な測定ができなかった。郭守敬はこれを作り直し、また簡儀、候極儀、玲瓏儀、仰儀、立運儀、証理儀、景符、窺几、日食月食儀、星晷定時儀などの天文儀を創作した。

司天台(古観象台)

また正方案、丸表、懸正儀、座正儀をよその土地へ行って天文観測(測候)する時の計測器とし、この他、仰規覆矩図、異方渾蓋図、日出入永短図などを作り、以上の諸計測器と相互に参照した。1279年(至元16年)郭守敬らは北はシベリアから、南は海南島チャンパ(インドシナ半島南東部)に到る広大な範囲の中で、(日時計の)日影の長さ(晷景)を測定した。この基礎の上で授時暦を初めて制作した。1年を365.2425日と定め、地球が太陽を回る周期とはわずか26秒しか差がなく、現在通用しているグレゴリオ暦とほぼ同じだが、その出現より3百年余り早かった。司天台(天文台)は大都城の東南角に位置し、全ての計測器は銅の鋳物で作られ、その性能は「皆精妙に至り、蓋し古人の未だ及ばざる所」であった。

黄道儀

地平経緯儀

 白浮堰の修築も、郭守敬の智慧と創造力を十分に示している。通恵河の水源を広げるため、郭守敬は昌平東南の白浮、神山の諸泉を西に引き、流れを更に南に曲げ、双塔、楡河、一畝、玉泉の諸水を、瓮山泊(今の昆明湖)に集めた。全長30里余り(約15キロ)である。経路の選択を見ると、当時既に大都付近の地形の起伏の変化を正確に掌握していたことが分かる。郭守敬はまた海水面(海抜)を大都と汴梁の地形と比較し、汴梁は京師より高いとの結論を導き出した。郭守敬はまた金口を開いて永定河の水を大都まで引いて使用するよう主張した。洪水の氾濫を予防するため、彼は金口河の西岸で一本分流する水路を開き、ぞれにより洪水の脅威を減らすよう提案したが、この計画は実現に至らなかった。

 

 機械の製造の面で、当時大きな成果があった。民間の紡績(紡紗)碾(穀物を挽く石臼)は、「その作りはたいへん巧みで、横向きの歯車と縦の歯車があり、大小の側輪があり、一日に350斤作ることができる。」(残本『順天府志』巻10『土産』)京西斎堂の水車を利用した臼は、水力で動き、昼夜を利用し穀物30石余りを挽くことができ、扇糖(扇形の型で固めた砂糖)も水力で動かして作られた。尚食局の小麦粉工場は、「2階で粉を挽き、1階の設備で軸を旋回させた。ロバに踏ませても、人夫に行ったり来たりさせても、及ばない。しかもほこりや匂い、汚れが着くことがない。」これは腕の立つ職人の瞿氏が発明したものである。(『南村輟耕録』巻5『尚食麺磨』)元の宮廷の中の興隆笙、玉漏は、作りがたいへん精巧であった。元朝の末代皇帝、順帝は荒淫がひどかったが、機械の制作が好きで、しかもたいへん創意工夫を備えていた。彼が自ら設計した龍舟は、移動する時、「龍の首、眼、口、爪、尻尾が皆動いた」。彼が作った水晶の宮漏は、元々の玉漏よりもっと精巧で、複雑であった。これらは当時の科学技術レベルを反映していた。

 

 中外文化交流 大都の経済、文化の空前の繁栄は、中国全土の統一と国内の各民族間の経済文化交流の基礎に基づいていた。中国と西域の間の経済文化交流が頻繁であるのも、大都の繁栄を促進する有力な要素であった。

 

 多くの色目人が大都に転入してくるにつれ、中央アジアの医学、天文学、数学、音楽、舞踊や、様々な巧みで完璧な手工業技術、科学や計器類が次々と大都に伝わってきた。大食人(アラビア人)也黒迭儿は、大都宮殿の築造の中で、大工の管理を担当し、「功勲が授けられ、朝から晩まで暇なく、心で語り目算し、頼りになる指揮を授け、ことごとく画策があった」。(欧陽玄『圭斎文集』巻9『馬合馬沙碑』)慧忽思の『飲膳正要』は、専門的に飲食、衛生を研究した著作である。景教徒の愛薛(Ngai-Sie)は弗林人(フランク人。ゲルマン民族の一部族。東ローマ)で、フビライにより天文暦法(星暦)、医薬の二司、後に広恵司と改称、の管轄を命じられた。ここで「宮廷御用の回回(イスラム)薬と混合薬を制剤し、以て宿衛(当直)の兵士や北京で独り身で貧しい者を治療した」。ジャマールッディーン(扎馬魯丁。ペルシャ人)は1267年(至元4年)フビライに『万年暦』を献上した。元朝朝廷の中に専門の回回司天台(天文台)を設け、ジャマールッディーン(扎馬刺丁。扎馬魯丁と同じ)を提点(官名)とし、「天文観測(天象)と暦の展開(衍暦)を管轄」した。1273年(至元10年)北司天台が用いた回回(イスラム)書籍は全部で242部に及び、これらは何れも天文暦算、儀器製造、医学の著作及びいくつかの天文儀器であった。郭守敬が作った玲瓏儀は、「星座(星象)をその本体に彫刻し、腹の中に仰向けになってこれを観察する」。回回の天文儀から学び取ったものだ。(葉子奇『草木子・雑制篇』)これらの儀器の鋳造は、阿尼哥Anigoが完成させたものだ。これらの外来の科学知識は、中国の科学遺産をより一層豊かなものにした。

 

 中国と西域の間の交通の発展により、幾人かの欧州の旅行家も、長旅に疲れつつ東にやって来た。彼らの旅行記の中に、大都に関する記述を見ることができる。

 

 マルコポーロはイタリア・ヴェニスの人である。1271年彼の父親と叔父が二回目の中国訪問の際、彼も同行して来た。彼らは中央アジアを横断し、1275年(至元12年)上都に到着した。彼は中国に17年滞在し、頗るフビライの信任を得た。彼は中国滞在の大部分の時間を大都で過ごした。彼は大都の城内の湖、宮殿、瓊華島(けいかとう。日記の中では「緑山」と呼んでいる)、街道、夜禁(夜間の外出禁止)、商業貿易、紙幣、賑粜(朝廷の備蓄米を売って罹災者を救済する)、及び朝廷の儀礼、制度、更にアフマド・ファナーカティー阿合馬)が刺殺された等の重大な政治事件などを、詳細に記述し、しかもその内容は基本的に正確だった。彼は最も美しく最も華麗な形容で、大都の様々な面を称賛した。彼は大明殿を「この宮殿の大きなこと、これまで見たこともない」、「壮麗で豊かで、しつらえのすばらしさは、誠にこれを越えるものはない」と形容した。 緑山(瓊華島)の上では、「世界で最も美しい樹木は皆ここに集まっている」。彼は大汗(ハーン)の宮中での金銀の食器(器皿qì mǐn )の多さを称賛し、「実際に見た者でないと信じられない」だろうが、宮廷の「只孫」(「只孫」はモンゴル語で色の意味。『元史』巻78『輿服志』に言う。「質孫、華言の一色服也、内廷の大宴は之を服す。」)の宴会では、毎回大汗と人数が12千人に達する怯薛qiè xuē(モンゴル語で当直の兵士の意味で、宮廷の衛兵)は皆同じ色の服を着、「世界中の君主でこれに及ぶ者はおそらくいないだろう」。毎年正月元旦の日、国中の数か所で華麗な白馬十万匹以上が貢ぎ物として入れられ、また5千頭の象、無数の駱駝が身に錦衣を纏い、金銀財宝を背負い、大汗の前に行列する。これは「世界で最も美しい奇観である」。彼は大汗の狩猟の様子を詳細に描述し、言った。「故に余は世界の人々に敢えて言う。娯楽の極みは、これを優ることができるのは、大汗を越える者はいない」。大汗のゲルを覆っているシロリス、テンの毛皮は、「最も高価で、最も美しい二種の毛皮」であり、「テント2基と寝所の価値の大きさは、一国の王がとても持てるものではない」。彼は紙幣の発行が、「大汗が全世界の全ての財宝を越える財貨を獲得する方法」となっている、などと述べている。(『マルコポーロ行紀』中冊P323-420)当時の西方の人々が彼の旅行記を読み、驚き羨ましくてならず、このため東方への交易を求めるブームが燃え上がるのも当然であった。

 

 もうひとりの旅行家、斡多里克(ポルデノーネのオドリコ)は、1322年(至治2年)から1328年(天暦元年)までの間に、3年間大都に滞在した。オドリコも大都の宮殿、儀衛(儀仗兵)、怯薛(宮廷の衛兵)組織、狩猟、宴会等を詳細に記載し、基本的には同様に正確である。彼は特に大明殿の玉榻(玉の寝台)の前の大酒甕を記載しており、全て宝石で作られ、金で箍箍(たがが締められ)、それぞれの角に一匹の龍が付けられ、天価の宝物である。皇宮の中から一本のパイプで酒をその中に引き、傍らには多くの金の盃が置かれ、飲酒の用に供していた。オドリコも元朝の紙幣にはたいへん不思議に思い、これにより大量の富が皇帝の手の中に流れ込み、その膨大な支出を維持する手段となっていたと考えた。



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