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北京史(二十) 第五章 元代の大都(8)

2023年06月19日 | 中国史

元曲作家、関漢卿

第三節 大都の文化

大都の文化

 文学芸術 元曲は歌舞・音曲・演技が一体となった舞台芸術である雑劇(戯曲)の台本のことで、中国文学史上、唐詩、宋詞と艶やかさを競う一輪のきらびやかで美しい鮮花である。早期の元の雑劇は主に大都という肥沃な花畑の中で育まれてきた。鐘嗣成『録鬼簿』に記載された元曲作家の原籍を考察できる87人中、大都は19人を占めた。その中には著名な作家、関漢卿(かんかんけい)、馬致遠、王実甫らが含まれている。明初に編纂された『順天府志』が引用する『析津志』残編の中に残っている元曲の大家、 関漢卿に関する記載によれば、「関一斎、字は漢卿、燕人、生まれつき洒脱で、博学で文章を善くし、滑稽で智慧多く、含蓄があって風流で、一時の冠(第一人者)と為った。この時は文章が愚昧で、独り奮い立つことができず、修辞に溺れることが久しかった。」関漢卿の創作生活は、大部分が大都で行われた。現存する元人の雑劇の中で、喬夢符の『黄金台』、瀋和甫の『燕山逢敵人』と無名氏の『燕山夢』は大都で発生した歴史故事を題材にして書かれたものである。

 

 雑劇の俳優は主に元朝朝廷の教坊司(宮廷に仕える楽人や妓女たちに宮廷音楽を教習させるための機関)所属の官妓であった。珠簾秀は本来の姓は朱で、「雑劇では今や抜きんでている」と推奨されていた。彼女は花旦(派手な若い女性)、軟、末、泥等の役柄を演じるのにたいへん造詣が深く、関漢卿と深い交流があった。連枝秀は本来の姓が孫で、彼の演技はたいへん感動的で、「人気を独占し、万人の喝采を浴びた」。天然秀も一時期大評判になり、彼女と元曲の大家、白仁甫とは親友であった。李蘭秀が出演した雑劇は3百余りあった。その他、李心心、楊隷儿、袁当儿、于盼盼、牛四姐らも有名な俳優で、牛四姐の夫はある唱社(劇団)の主演であった(『青楼集』)。俳優、娼妓は封建時代は身分がたいへん低く、彼女たちはじぶんの演技活動で宋金以来の戯曲の脚本、諸宮調を継承し、それらを大いに発展させ、元の雑劇の繫栄に尽きぬ素材と豊富な演技技術を提供した。彼女たちが雑劇発展の中で果たした役割は、簡単には無視できないものだった。元朝朝廷の規定では、「籍が正当な楽人である者を除き、その他の農民、市戸、良家の子弟で、もし本業に就かず雑劇を学んだり、台詞を演じたりすることは、どちらも禁止され、取り締まりを受けた」。(『通制条挌』巻27『雑令』)大都の街角で『琵琶詞』を歌う物売りなどの民間芸人は、「人々を集め、通りを塞ぎ、男女が入り混じり、もめ事を引き起こすだけでなく、ひょっとすると別の事件の発端になるかもしれない」(『元典章』巻57『刑部19・雑禁』)ことから、厳しく禁止された。

 

 大都では画家も人材を輩出した。山水画が得意であったのは、劉融(伯熙)、喬達(達之)、韓紹煜(子華)、高克恭(彦敬)、李希閔(克孝)。竹石であれば李衎(仲賓)、于士行(遵道)、張徳琪(廷玉)、李有(仲方)、劉徳淵(仲淵)、及び張敏夫、高吉甫、劉広之。花果(花や果実)であれば謝佑之。人物であれば李士伝。伝写(模写)であれば焦善甫、冷起巖。その他、僧侶や道士の中でも、絵画を能くする者は少なくなかった。

 

 著名な塑画家(塑像作家)の劉元は、宝坻(天津市)の人で、若くして出家し道士となり、青州の杞道録に師事し、多才多芸で、特に塑像制作に長じていた。劉元はまた都にいたネパールの名声高い師で腕のある職人、阿尼哥(アニコ、アニゲ、またはアラニコ)から西天梵像(インド式の仏像)の制作を学んだ。「神思妙合すれば、遂に絶芸となる」。あらゆる両都の著名な寺院は、「土で形作った像に金を貼り、脱胎(摶換)して仏とするのは、一に劉元の手から出れば、天下に比べるもの無し。いわゆる「摶換」というのは、先に土偶の上を帠(絹布)で覆い、更に帠の上を漆を塗り、その後土を取り去れば、漆を塗った(髹)帠はそのまま像となる。北京の言葉でこれを「脱活」と言う(つまり乾漆像)。後代の人々は劉元の名前を訛って劉蘭と呼んだ。玄都(道教寺院の名前)の景勝に到り、「劉蘭塑」を見るのが、京師の住民の好む遊覧鑑賞活動であった。言い伝えでは、ここの塑像は劉元の手で作られたものと言われる。右殿の三清は、「容貌が厳かで、道気が深い」。左殿の三元帝君は、「上元(帝王を指す)は帳面を執り、首を側け問う、疑う所あるが若しと。一吏跪きて答う、甚だ戦慄すと。一堂の中、皆ひどく恐れおののく(悚聴)。表情や動作は、あたかもその謦咳(けいがい。咳払い)を聞くが如し。誠に絶芸と称すべし。」(高士奇『金鰲退食筆記』下)元人の塑像は、高い肉髻 (にっけい。仏・菩薩(ぼさつ)の頭の頂上に隆起した、髻(もとどり)のような形の肉塊)と、細い腰が特徴で、明らかに西域の風格を持っていた。

肉髻

 曲陽県の人、楊瓊(ようけい)は、著名な石刻家であった。彼の家は代々石工であった。彼の玉刻を、フビライはたいへん楽しみ、絶技だと褒めた。大都で建造された石刻は、その多くが彼により完成された。(光緒『曲陽県志・工芸伝』)



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