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北京史(八) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(5)

2023年04月28日 | 中国史

房山雲居寺の遼代の塔(北塔)の周囲に立つ4基の唐代小塔

北京市房山区大石窩鎮水頭村雲居寺

 

第三節 隋唐五代期の幽州地区の都市と住民(続き)

 

 

幽州経済の発展

 

 唐代、幽州地区の土地はより一層開墾され、農業に発展が見られた。永徽年間(西暦650‐655年)、幽州の農民は盧溝水を引き、稲田数千頃(けい。100畝(ほ。ムー)が1頃、1頃は6.6667公頃(ヘクタール)に当り、66 667㎡に等しい)を開き、百姓はその豊かな産量を頼みにした。しかし、幽州は隋や唐にとり北方の軍事の拠点であり、常に大量の軍隊が駐屯し、ただ当地で産する糧食に頼るのでは供給量が足らなかった。隋末、「倉粟盈積」というのは、軍糧を外地から運んで蓄えたことを言うのである。貞観の時、幽州には常に平倉が設けられ、凶作の年に救済したり、種もみを貸すのに用いられた。武則天(則天武后)以後、契丹、奚と唐王朝の関係は緊迫し、絶えず戦争が起こり、幽州の軍糧はしばしば江南より運ばれた。西暦696年、陳子昂(ちん すごう)は『上軍国机要事』の中で言った。「即日江南、淮南諸州で船数千艘を借り、既に鞏(きょう)、洛に至るは百余万斛(こく。升)。所司は強いて幽州に運ばせ、軍糧を充足させた。」(『陳子昂集』巻8)杜甫は『昔遊』の詩の中で書いている。「幽燕盛んに武を用い、供給するは亦労哉。呉門転粟の帠、海陵蓬莱に浮かぶ。」『後出塞』の中でも言っている。「漁陽は豪侠の地、鼓を撃し笙(しょう)竽(う)を吹く。雲帆は遼海に転じ、粳稲は東呉より来る。」(『杜工部詩集』巻7、巻3)何れも長江下流の米が幽州に運ばれた事実を説明している。唐朝後期、幽州は藩鎮(唐代、辺境各州に設けた節度使)割拠の政権統治の下、糧食の供給は主に幽州付近の嬀州(きしゅう。懐戎を治める。今の官庁水庫(ダム)の北岸)及び北側の7鎮(今の密雲、平谷一帯)に依存していた。

 

 唐代、幽州の果樹生産は確かに発展した。栗は幽州の重要な貢品(宮廷への貢ぎ物)のひとつであった。(『新唐書』巻39『地理志』、『通典』巻6『食貨六・賦税下』)幽州付近の涿州(今の涿県)城内にはまたくだもの屋があり、専らくだものや木の実を販売した。燕山はまた木材を産出した。開元年間の初め、張説は幽州都督になり、「人に命じて木を燕岳で斬り、山林の財を通じせしむ」。(『全唐文』巻312孫逖『唐故幽州都督河北節度使燕国文貞張公遺愛頌 並びに序』)幽州と檀州の土貢(地方特産の貢ぎ物)には人参(朝鮮人参)があり、檀州の土貢にはまた麝香(じゃこう)があった。唐令によれば、土貢は「皆当地に産するものを取る」(『新唐書』巻39『地理志』、『通典』巻6『食貨六・賦税下』)、唐代の薊城付近と密雲一帯ではまた朝鮮人参や麝香を産出したことを言っている。

 

 綾、絹は皆幽州から朝廷に献上した特産品であり、幽州城内では何軒かの絹商店が設けられ、このことから絹織物業が一定の規模を持っていたことが分かる。薊城付近では鉄を精錬し、城内には鉄を商う商店も開設された。鉄の採掘と精錬は幽州の重要な手工業のひとつであった。唐の高祖の時、幽州には鋳銭監が設けられた。開元年間の初め、張説(ちょうえつ)は人に命じて「銅を黄山に採掘し、ふいごで火を起こし銭を鋳る利を興せしむ。」(『全唐文』巻312孫逖『唐故幽州都督河北節度使燕国文貞張公遺愛頌 並びに序』)幽州の銅の精錬産業が発展途上であることを説明している。幽州地区には更に塩池があり、唐政府はここに塩屯(製塩所)を設立し、各屯には壮丁(成年男子)50人を配置した。(『金石萃編』巻103『大唐河東塩池霊慶公神祠碑』:「塩池の数は九、七つは幽朔、二つは河東」。『通典』巻10『食貨十・塩鉄』)

 

 幽州の地理的な位置により、唐代の中国内の商業交易上の重要な地位を占めた。馬、毛皮など関外の商品の輸入、及び関内の農産品、手工業製品の輸出は、何れも幽州が集散地となった。多くの胡商(西域異民族の商人)もここに集まった。範陽節度使安禄山は曾て「商胡を分遣し諸道を詣でて販鬻(鬻(ひさ)ぐ。売る)す。一年に珍貨数百万を運ぶ」。(『資治通鑑』巻216唐玄宗天宝十載)交易額は相当なものであった。天宝(西暦742‐756年)、貞元(西暦785‐805年)年間、幽州城内の各業種はたいへん発展した。城の北部には固定の商業地区と手工業地区が設けられ、「幽州市」と称した。各業種は市の中で営業した。業種の種類は房山雲居寺の石経の題目に記載されているものに、白米(精白した米)業、大米(製米)業、粳 米(うるち米)行、屠殺業、食肉業、油業、五熟(各種の食品)行、青果業、椒笋行、木炭業、鋳鉄(銑鉄)業、研磨業、染色業、織物業、絹織物業、大絹行、小絹行、新絹行、小彩行、絲綿彩帠絹行、幞頭(ぼくとう。男子の頭巾)行、製靴業、雑貨業、新貨行など30種類近くの業種があり、業種の種類が多いだけでなく、各業種の間の分業もたいへん細かかった。それぞれの業種の業界(「行」)は同じ種類の商品を取り扱う店舗から成り、経営者は「舗人」と称した。「舗人」の中には多くの店員や丁稚を抱える者がいれば、自分や家族の労働で生計を立てている小商人や小手工業者もいた。

 

 唐代の幽州の交通は更なる発達が見られた。長安から幽州まで、長安を出発すると太原を経由して娘子関に出るルートと、洛陽を経由して後、今の京広線(北京と広州を結ぶ鉄道路線)に沿って北上するルートの二路線があった。途中には旅籠があり、酒や食事、駱駝が準備され、商用での往来に便利なようになっていた。幽州から東北へ行くには、密雲を経由して北口(今の古北口)から長城に出て、奚王牙帳(今の遼寧省寧城の東)に至るルート、また今の京承鉄路(北京と承徳を結ぶ鉄道)に沿って東北に至ることもできた。また居庸関(唐代には納款関、軍都関とも呼ばれた)を出て嬀州(きしゅう)と山西北部に至ることもできた。唐の武宗は廃仏を行い、五台山の僧侶の多くが幽州に逃亡したので、幽州節度使の張仲武は二刀を封じて居庸関を委ねて言った。「旅の僧侶が居庸関を越えて入ってくれば之を斬る。」このことから、居庸関が当時北方から幽州に入る重要な門戸であったことが分かる。水路は、永済渠により幽州から洛陽に直接到達することができ、また海路を経て江南や東北に通じていた。

 

 

幽州の文化

 

 『隋書・地理志』によれば、「涿郡は辺境の郡と連なっているが、風習は太原と同じで、それゆえ古来勇侠の者は皆幽州、并州(へいしゅう)より出ると言う。然るに涿郡、太原は前代以来、文雅の士が多い。皆辺郡と言うけれども風俗や教育レベルは比べものにならない。唐代、幽州地区でも多くの文学者や芸術家が生まれた。たとえば、天宝年間、将棋に通じ詩文を能くした張南史。「推敲」で有名な中唐の詩人賈島。経義に通じ、文宗の時、「対策」(科挙で、治国の政策について皇帝から出題される問題に論文で答えること)の中で朝政を非難し、一大センセーションを巻き起こした劉蕡(りゅうふん)などは、当時の著名人であった。

 

 則天武后の時、著名な詩人、陳子昂(ちんすごう)は征から幽州に着き、薊北楼に登り、現在の事に触れて昔をしのび、涙を流しながら歌った。「前に古人を見ず、後に来る者を見ず。今天地の悠々、独り愴然(悲しみ痛む)として涙を流す。」これは有名な『登幽州台歌』である。開元の初め、唐の初代、文宗は張説を幽州都督にした。開元20年前後、著名な詩人高適が幽州に来て、詩人王之涣(おうしかん)も薊城郊外の薊門に寓居していた。彼らはここで多くの幽州の風俗を反映し、彼らの幽州の生活を記録した詩篇を書いた。

 

 唐代は、アジア各地との経済文化交流が日増しに頻繁となり、中央アジア、西アジア一帯の舞楽やスポーツ、遊戯が絶えず中原に伝えられ、幅広い人々に歓迎された。ペルシャより伝わったポロ(撃鞠)は唐代にたいへん流行したスポーツ競技であった。馬上から打つものと、馬を使わないものの2種類があった。幽州地区ではポロがたいへん流行し、球技場の規模はたいへん大きく、通常は更に閲兵する場所もあった。

 

 幽州にはまた雑技を演じる民間の芸人がいた。『朝野金載』によれば、「幽州人劉高は長竿を持ち、その高さは70尺(約2メートル)、自ら持ち上げ上下させた。12歳の娘がおり、たいへん端正な顔立ちだ。竿の上で位置を定めると、竿に跨り胡坐をかいて立ち上がる。」『杜陽雑編』でも幽州の芸妓の石大胡に触れ、百尺の竿の上に弓の弦を五本張り、五人の女にそれぞれ一本の弦の上に居らせ、着ているのは五色の衣装、戟を執り戈を持ち、一曲の楽曲の間踊り続け、一挙一動がリズミカルで空を飛んでいるようだった。これより、当時幽州では雑技が相当流行していたことが分かる。

 

 幽州地区の彫刻や塑像も、唐代に高い成果が見られた。天宝末年、安禄山が幽州で、白玉で魚、龍、カモ、雁、及び蓮の花を彫って唐の玄宗に献上した。「魚、龍、カモ、雁は皆、鱗を震わせ翼で羽ばたき、その様子は飛び立とうとしている様だった。」(『資治通鑑』巻217唐玄宗天宝十四載注釈『明皇雑録』)これより、彫刻が巧みであったことが分かる。房山石経山の遼塔の周囲に、睿宗(えいそう)の景雲二年(西暦711年)から玄宗の開元15年(西暦727年)までの時期の四基の小塔が保存されている。いくつかの小石塔には仏、菩薩、天王、力士像のレリーフがあり、姿かたちが生き生きとし、彫刻は精巧で美しい。北京房山県磁家務の南山の斜面の上に、無梁殿が一棟あり、名を万仏龍泉宝殿、または万仏堂と言う。殿内の壁には『万仏法会図』のレリーフの石刻が嵌め込まれ、考証によれば唐の大歴五年(西暦770年)に彫られたとみられる。彫刻はたいへん精緻で、今日まで保たれている。近年、北京で出土した唐の信州刺史の薛(せつ)氏の墓の中から五つの精巧で美しい漢の白玉石俑(鶏、蛇、龍、猪、羊)が出土した。それらは線で生き生きと描かれ、姿形が自然で、躍如として真に迫り、彫刻の技術は非常に成熟している。これらは唐代の幽州地区の彫刻芸術の高度に発展したレベルを反映している。薛氏墓の墓室内には壁画が残存しており、その上には花卉と水鳥の痕跡があり、唐代にちょうど隆盛し始めていた花鳥画が既に幽州地区に出現していたことを反映している。

『万仏法会図』レリーフ

『万仏法会図』レリーフの一部

 隋唐時代は仏教がたいへん盛んであった。北京西南の房山県大房山雲居寺は、昔、幽州の重要な仏教寺院で、石板経の珍蔵で世に知られていた。史書によれば、北斉の南岳恵思大師は北周の武帝の廃仏焚経の教訓に鑑み、石経を刻んで山中に収蔵する決心をした。その弟子の幽州僧静琬(じょうおん)は師匠の言いつけ通り、隋の大業年間に「石経を作り之を蔵し、以て法滅に備えるを発心」した。このことは封建統治者の支持を受け、隋の煬帝の蕭皇后(しょうこうごう)は絹千匹(反物を数える。一匹の長さは50尺、或いは100尺)を布施した。唐の玄宗の時、特に仏教経典4千巻余りを賜り、経典を刻む底本(種本、テキスト)とした。 

 

 静琬が開鑿した華厳堂雷音洞)の四方の壁には、146枚の隋、唐代初期に刻まれた石経が嵌め込まれている。書道の上から見ると、石経は虞世南、褚遂良(ちょ すいりょう)など唐代初期の大書道家の字体に近く、内に剛柔を含み、外に筋骨を現わし、力を内に秘め、字はほっそりしているが力強く、筆遣いが益々力強くなる風格がある。これらの石刻は有名な書法家の手によるものではなく、艱難辛苦を怖れぬ無名の芸術家の作品で、彼らの努力と知恵の結晶である。

北京房山県石経山の蔵経洞華厳堂

石経山には上下二層の石窟があり、上層には7窟、下層には2窟あり、大部分が隋、唐時代に開鑿されたものである。これら9窟に所蔵される石経は、これまでのところ、既に4千4百枚余り発掘されている。いくつかの石経の題字には、当時の幽州、涿州の同業者組合の名前が保存されている。これらの石経は、仏教経典の照合、中国の仏教、石刻、書道芸術、経済文化史の研究の上で、重要な価値を有している。

 

 北京郊外の風光明媚な場所には、多くの寺院が建てられている。隋の文帝の時、「舎利」を収蔵するため、弘業寺(今の天寧寺)に高い塔が建てられた。この塔はその後倒壊し、今の天寧寺磚塔遼代に建てられたものである。(詳細は本書の遼代の章を参照)唐の高祖の武徳5年(西暦622年)今の北京西郊馬鞍山の麓に、慧聚寺(今の戎台寺)が創建された。ここは泉の水が流れ山に花が咲き、山の峰は秀麗である。唐の貞観年間、兜率寺が西山山麓北部に建てられた。すなわち今の臥仏寺である。憫忠寺(今の法源寺)は唐の太宗の貞観19年に陣中で亡くなった将兵を祈念して建立され、将兵の不満を緩和し、人心を篭絡しようとした。東西に曾ては二つの塔が建てられ、高さは十丈(約30メートル)、これらは安禄山、史思明により建てられた。寺の境内には今も唐の粛宗の至徳2年(西暦757年)張不矝(ちょうふきょう)が撰し、蘇霊芝が書いた『無垢浄光宝塔頌』、唐の昭宗の景福元年(西暦892年)の『唐憫忠寺重蔵舎利記』が現存する。開元年間には更に天長観(今の白雲観)が建てられたが、これは規模のたいへん大きい道教寺院である。



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