中国語学習者のブログ

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北京史(十九) 第五章 元代の大都(7)

2023年06月17日 | 中国史

「江漢先生」趙復が理学を燕京に伝播した

第三節 大都の文化

大都の文化

 理学の伝播 理学は南宋の朱熹により集大成されたが、当時は中国全土の思想界の中では依然として支配的な地位にはなかった。北方では、金代に流行したのは三蘇(洵、軾、轍)の学で、北方の学者は多くは朱が注釈した『四書』を読んだことがなかった。1235年、オゴタイ(窩闊台)はクチュ(闊出)に宋を攻めさせた。当時、楊惟中(よういちゅう)、姚枢(ようすう)がちょうど従軍し、技術を持った儒者、道士、僧侶、医師、占い師を探し求めるよう命令を受けていた。彼らの庇護の下、捕虜となった儒者は皆罪を解かれた。江西省徳安の人、趙復、字は仁甫、彼は理学の信者で、捕虜にされてから、姚枢が彼を燕京に連れ帰った。これ以前は、「南北の道は絶たれ、載籍(典籍)は相通ぜず」。 趙復は燕京に来てから程朱(程顥(ていこう)、程颐(ていい)兄弟と朱熹)の著した諸経伝に注を記し、できるだけ記録して、重要な部分を付け足そうとした。この時、王擑(おうせつ)が燕京で創設した廟学は既に閉鎖され、 楊惟中と姚枢は対極書院を建立し、 趙復に程朱の理学を講義するよう依頼し、学者は彼を江漢先生と尊称した。楊惟中は書院の中に祠を立て周敦颐を祀り、また二程(颢、颐)、張(載)、楊(時)、游(酢)、朱(熹)を以て配食(配享。祭祀で主神に添えていっしょに他の神を祭ること)した。趙復の影響により、姚枢、許衡、郝経、劉因らは皆理学に改宗し、「北方で程朱の学を知るは、復より始ま」った。趙復の講義の助手を務めた王粋(元粋)は、若い頃は襄陽を放浪していたが、後に単身燕に帰り、道士となった。彼の詩は、もの悲しくわびしく、当時の社会の破綻や、人々が流浪し困窮する惨状をよく反映していた。

 通訳の人材を育成するため、1233年オゴタイは詔を出して国子学を燕京に建てさせ、モンゴルの子弟18人を遣わして漢語の文字を学習させた。漢人の子弟12人には、モンゴル語、弓矢を学習させ、儒士と儒学に通じた道士を選んで教えさせた。また学業を伝授された生徒は漢人の文書を学習する以外に、「併せて匠の技に習熟し、事は薬剤を用い、彩色を出し、地理州郡を記憶するに及び、下は酒の醸造、麹(こうじ)の種付け、水銀の製造、飲食の調理に至るまで、皆詳しく見て暁通するよう規定した。当時は全真教の道士が燕京で勢力が甚大で、儒士大夫の多くは道門に庇護を託した。燕京の学宮も「老氏(老子)の徒であるを保った」。学宮の主催者は楊惟中以外、葛志先、李志常の徒は皆当時有名な全真教の道士であった。

 元朝建立以後、1270年(至元7年)、フビライは近臣(侍臣)の子弟を11人選び、 許衡(きょこう)、王恂(おうじゅん)から学ばせた。 許衡は元代の著名な理学家で、 朱熹の学を伝えた。1287年(至元24年)政府は国子学を拡張し、生員(太学などで勉強する学生)120人、モンゴル、漢人が半々で、許衡の弟子の耶律有尚が祭酒を務め、「その教法は一に衡(許衡)の旧に従って」いた。「その立教は義理(言論の内容と道理)を本とし、省察(自分の思想、行動の検査)は真切(はっきりしている)でなければならない恭敬(礼儀正しい)を先にし、践履(実践)は正直で誠実でなければならない。およそ文詞の小技、編集(綴緝)彫刻は、聖人の大道を破裂させるに足り、皆これを排斥(屏黜)する。(『元史』巻174『耶律有尚伝』)これより、国子学は理学伝播の中心になった。1298年(大徳2年)丞相哈剌哈孙(ハラハスン,1257—1308)は城の東北に孔子廟と国子学舎を興し、皇慶(仁宗の代、1312‐132年のみ)の初め、集(ぐしゅう)が大都の儒学教授に任じられ、また岐陽の石鼓をその中に安置した。

 

 宗教 元朝は多民族の統一国家で、西方と特殊な連携を保持し、宗教上は一貫して兼容(包容)政策を取った。このため、大都城内では各種の宗教教派が同時に流行した。その中でも、ラマ教は皇帝の崇拝を得て、最も盛んであった。

 ラマ教はオゴタイの時代にモンゴルに伝わり、モンゴルの統治者の信仰を得た。フビライの時代、薩斯迦派(サキャ派)の八思巴(パスパ、パクパ)が帝師に封じられ、尊敬され光栄に輝くこと、比べる者が無かった。パスパの死後、歴代の皇帝の師を継承した。皇帝の即位に当り、必ず先ず皇帝の師が七回受戒してから、大位に登った。元朝の皇帝は皆仏教寺院を大いに建立した。フビライは高梁河に大護国仁王寺を建て、城内に大聖寿万安寺を建てた。成宗は大天寿万寧寺を建て、武宗海山(カイシャン)は城南に大崇恩福元寺(最初の名は南鎮国寺)を建て、また大承華普慶寺を建てた。仁宗は承華普慶寺を建て、英宗碩徳八刺(シデバラ)は寿安山佛寺を建て、泰定帝也先鉄木儿(イェスン・テムル)は天源延聖寺を建て、文宗図帖木儿(トク・テムル)は大承天護聖寺を建てた。これらの寺院は規模が広大で、装飾が豪壮であった。元朝政府は毎年仏事を行う累計が5百回以上にまで増えた。仏事を行うため、毎日羊を何万頭も用い、年間の消費が、小麦439500斤、油79千斤、バター21870斤、蜂蜜27300斤になった。仏教の経典を書き写すのに、金32百両余り消費した。その他の銀貨、(不動産としての)田畑の寄進の額は数えきれなかった。武宗の時、張養浩が上書してこう言った。「国家の経費は、三分割すると、仏教関係が二を占める」と。この面での浪費が深刻であったことが分かる。

 金、元時代に大都で流行した仏教は、ラマ教及び臨済、雲門、曹洞などの禅宗諸派以外に、いくつかの外道と見做された禅宗の別派、すなわちいわゆる糠禅、瓢禅の類があった。金朝政府は糠禅、瓢禅、五行、毗(毘)盧などの教派を厳禁する命令を出した。糠禅の創始者は劉紙衣である。この宗派は金末に伝播してから百年余りになり、弥勒仏の出現を信じていた。耶律楚材は彼らを「仏像を破壊、仏法を誹謗し、僧を排斥し経典を滅ぼし、布施の方法を捨て、懺悔の道を閉ざし、苦しみを救わず、孝行の気風を傷つけ、実に風俗教化を破壊すること甚だしい」と叱責した。ジンギスカンの時代、糠禅は燕京城内でたいへん流行し、「市井の工商の徒、糠を信じる者十に四五」と言われ、士大夫の中にも信仰する者が多かった。元に入ると、糠禅は頭陀教の名前で流行し、宮廷の中にも多くの信仰者がいた。張昱(ちょういく)『 輦 下曲』(れんかきょく)に言う。「肩に緑髪垂れ糠禅に仕える、淡く娥眉を掃き、自ずと憐れむ可し。内門を出入りし装飾盛んなり、満宮争いて女神仙を迎えん。」この記述がたいへん良くそれを証明している。この一派の廟宇が有名な有勝因寺である。白蓮教も釈迦外道の一種である。耶律楚材の『西游録』に言う。「西域に96種、これは毗盧、糠瓢、白蓮、香会の徒で、釈氏の邪也。」1274年(至元11年)大都の屠文正が百人余りを集め、白蓮社を建てた。しかし、この白蓮社と当時流行した南宋の白蓮会が、教義上で関係があるかどうかは、はっきりしない。

 元代に大都で流行した道教は、全真、正一、真大、太一の諸派であった。全真道士、邱処機(きゅうしょき)、号は長春真人(邱長春)、1219年お召を受け、万余里も跋渉(ばっしょう)し、往復3年をかけ、中央アジアで西征中のジンギスカンに見えた。彼はジンギスカンに対して言った。「国を治める方は、天を敬い民を愛するを本とする。長生の道は、清心寡欲を以て要となす」。彼は大いにジンギスカンの歓心を得た。当時、中央アジア回教徒が賦役を免除される制度に基づき、ジンギスカンより邱長春に聖旨を賜った。「邱神仙が必要な修行の院舎などは、日日経文を唱え、天下の人々に告げ、皇帝に長寿の万万歳を祝う場所である。大小の賦役を発すると布教を休まないといけない。邱神仙は出家した仏門の人であるので、随所の院舎は賦役を発するを免じる。」(李志常『長春真人西游記』。「底」は「的」、「毎」は「們」である)長春真人は燕京に戻ると、天長観(後に長春宮に改称)に住み、また瓊華島の万安宮に移った。当時、瓊華島は長く兵火を経て、深刻な破壊を受けた。邱長春は道院を拠点にしてから、「薪を切り魚を捕る者が後を絶ち、数年すると、園の池の中は鳥、魚が繁殖した」。全真道は賦役免除の詔書を持っているので、信者になって庇護を求める人が益々多くなった。道教徒は勢力を頼みにのさばり、仏教寺院を占拠し、勢力は極めて盛んだった。1227年夏、邱長春が赤痢に感染して死亡した。道士たちは物語を捏造し、長春は葆玄堂に登り仙人となり、「異香が部屋に満ちた」と言った。僧徒たちは極力彼が病の中苦しんだ有様を明るみに出し、また歌を作って言った。「一把(ひとつかみ)の形骸(身体)痩せた骨、長春一旦変ずる時、和濉は屎を帯び圊厠に亡ぶ、一道流れ来たり両道流る。(『至元辨偽録』巻3)道徒があまりにのさばっていたので、仏教徒、回教徒、キリスト教徒は連合して全真道を攻撃した。モンケの時代、和林で阿里不哥が宗教弁論会を主催した。その結果道教は失敗し、道士は強制的に髪を下ろさせられ、占拠していた寺院2百ヶ所余りを返還し、『老子化胡経』を焼却した。これ以降、ラマ教の勢力が益々盛んになり、引き続き全真道に対し攻撃と排斥を行った。フビライはそれで12801281年(至元1718年)の2回道蔵偽経雑書と印板の焼却を命じ、ただ老子の『道徳経』一書のみ焼かずに留保させた。しかし、全真教の基盤はしっかりしており、打撃を経ても、社会で尊びあがめられるのは衰えなかった。フビライが死に、成宗が即位すると、1295年(元貞元年)正月、詔を下し、凡そ道家が行う金箓(天帝の詔書)と科範(儀式の規格)は、仏教を侵犯しない条件で、自由に発展させた。元の時代を通じ、全真道はその他の宗教と同様、元朝政府の遵奉を受け、賦役免除の特権を享受した。

 元朝の時代、中国と西方の関係の密接化と中国と西方の交通の発展に伴い、大勢の中央アジア、或いは東欧の各民族の人々が大都に流入し、或る者は定住し、或る者は寄寓(僑寓)した。その中には、官吏、商人、伝教師、使節、下士官、職人、奴隷が含まれていた。このことは、大都城内でイスラム教やキリスト教が盛んになるのを促した。

 大都のイスラム教の情況については、残された史料がたいへん少ない。知ることができるのは、元初に、回回哈的(「回回」は回族。「哈的」カーディー。「卡迪」と表記することも。アラビア語でイスラム教法官の称号)の宗教事務を行う機関を設けたということだ。1311年(至大4年)朝廷の政局の変動に伴い、一部の色目人の高官が勢力を失い、そのため元朝政府は同時に明文で「回回哈的司属をやめる」と命令した。こう規定した。「哈的大司達は、彼らのよく理解している経典を教えることだけすればよい。回教徒の刑罰、婚姻、地租(銭糧)、訴訟、大小の公事は、哈的達がよく知っており、司官が委託した者に具体例を聞けば教えてもらえる。外に衙門(役所)を設立し、且つ委託した者達は罷免された。」(『通制条挌』巻29『僧道』)文宗が即位し、1328年(致和元年)11月、また 回回掌教哈的所をやめた。統治階級内部の複雑で激しい権力闘争の中で、色目人官僚のグループが再び打撃を受け、イスラム教組織も続けて打撃を受け、取り締まりを受けた。

 大都のキリスト教は、東方のネストリウス派(景教)だけでなく、ローマ天主教のフランシスコ会もあった。大都の景教徒の人数は3万人を越えたと言われる。彼らの中にはモンゴル地区の克烈部(ケレイト部)、汪古部(オングート部)、ナウマン部及び新疆と中央アジアの境の少数民族が含まれていた。彼らは皆「たいへん富裕な人」であり、「各種の封建官吏を独占し、たいへん大きな特権を有していた」。彼らは美しい教会を建設した。著名な景教徒Liebian Xiama(列辺・霞馬)が大都の人であった。 霞馬の父親がボイコットしたのは景教会の視察員であった。霞馬は1275年(至元12年)頃、東勝(オルドス)人の馬儿古思と共にエルサレムを巡礼した。馬儿古思は1280年(至元17年)契丹と汪古(オングート)の大教主に任じられた。1281年には景教の総主教に選ばれ、アブラハム3世と改名した。霞馬は1286年イリ(伊利)のハーン(汗)、総主教の使者となり、欧州諸国を遍歴した。

 大都の天主教は1293年(至元30年)頃、著名な宣教師ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ(約翰·孟德高維諾)が転入した。モンテコルヴィーノはイタリア北部の人で、教皇ニコライ4世により派遣され、小アジア、インドを経て、海を渡って大都に到着した。1306年(大徳16年)までに、彼は大都で前後して二か所の教会を建設し、洗礼を受けた信者は6千人に達した。モンテコルヴィーノの宣教活動は、とりわけ大都に移住してきたアルメニア人、アラン人(阿速人)から歓迎された。当時、大都のアラン人( 阿速人 )は3万人いたと言われ、右、左衛阿速親軍指揮使司に分かれて所属し、元朝京師衛戍軍(守備軍)の主力軍団であった。モンテコルヴィーノの請求の下、教皇は1307年(大徳11年)宣教師7人を大都に派遣し、宣教を手伝い、またモンテコルヴィーノを大都大主教に任命する勅令を伝達した。この7名の宣教師は、ただガラルドゥス、ペレグリウス、ペルージャのアンドレウスの三人だけが1311年(元至大4年)頃大都に到着した。モンテコルヴィーノは1328年(泰定5年)死去した。阿速軍の高官は1336年(元の順帝の至元2年)使者をローマ教皇に派遣し、引き続き後継の主教を派遣するよう依頼した。教皇は1338年(至元4年)マグノリアを含む使節を陸路で東に派遣し、元の順帝に「天馬」を贈った。使節は大都に3年滞在してから、海路で西に戻った。

 当時の宣教師の報告によれば、彼らは大都で自由に宣教ができ、皇帝の尊崇を受け、皇帝の方から衣食に足りる「阿剌法」(アラビア語、意味は糧食や下士官の給料)を受けた。『元史・世祖紀』によれば、至元19年(1359年)「敕也里可温依僧例給糧」(「也里可温」エルケウンに僧例に基づき「糧」を給するよう勅令を出した)。ここでの「糧」は宣教師たちが言うところの「阿剌法」である。「也里可温」エルケウン は元朝のキリスト教徒に対する呼称である。