中国語学習者のブログ

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北京史(十四) 第五章 元代の大都(2)

2023年06月02日 | 中国史

大都の水問題解決、白浮堰の水源、白浮泉

第一節 大都の建設

 

 

大都の規模(続き)

 皇城は城の南部の中央で西に偏っていた。これは皇城が設計上、太液池(今の北海中海)の景観を十分に利用して造成したいと思ったからである。皇城の北は海子である。海子は一名を積水潭と言い、西北の諸泉の水を集め、都城に流れ込んで、ここにひとつに集まったものである。海子付近は繁華な商業区域であった。太廟は宮城の真東、斉化門の内側にあった。社稷台は宮城以西にあった。これらは皆、古の制度の王都は「左に祖廟、右に社稷。朝廷に面して市場は後ろ」の原則に則り、配置された。海子の東岸には中心閣があり、この高閣のやや西に石が置かれ、その上に「中心之台」と刻まれていて、これは全城の幾何学的中心であった。城南の正門の麗正門から中心閣まで、南北に走る直線は城全体の中軸線で、宮城の主体建築はこの中軸線によって均衡を取って展開した。専門家の研究によれば、中心閣の場所の選定は、中心閣から麗正門に到る距離により確定し、城全体の四方の境界の基準となった。これにより客観的な地形を合理的に利用し、また建築効果を十分に突出させる目的を達成した。こうした独創的な設計規格は、たいへん高い創造性を表していた。

元大都和義門遺跡

 都市の水供給の問題は、フビライ金の中都の旧跡を放棄し、太液池海子湖沼地区を新たな都市区画として選択した重要な要素であった。金の中都は蓮花池の諸河川を利用したが、流量に限りがあり、拡張された大都市の需要を満たすには不十分であった。海子には高粱河が流れ込み、金代は玉泉甕山泊(今の昆明湖)の諸河川が東南に流れ、高粱河の水量を拡大した。特にフビライの晩年に郭守敬通恵河を開鑿した時、白浮堰を修築し、昌平の東南で神山、一畝の諸河川を引いて注入したので、流量は更に増加した。

白浮堰

郭守敬はまた海子の水を東に引き、皇城の東壁に沿って南流させて城を出て、金朝が開鑿した金口河下流の河道と出会って東流し、大都と通州の間の運河である通恵河を構成した。宮廷の庭園の用水を保証するため、元朝はまた特に金水河を開鑿し、玉泉水を引いて和義門の南を経て城に入れ、方向を変えて南流させ、西南角から太液池に注ぎ込んだ。流れる水をきれいにするため、金水河の中で手を洗うことは厳禁であると公表された。水源の開発、利用で、大都の園林の景観がはぐくまれ、商業や交通も繁栄した。

郭守敬の通恵河開鑿

 城中の街道は、『周礼』の原則に基づき、南北と東西に走る幹線道路はきれいな方形に区画された碁盤形となった。南から北に到る道をと言い、東から西に到る道をと言った。大街(大通り)は二十四歩の幅、小街は十二歩の幅とし、三百八十四の火巷(火事の延焼を防ぐために設けられた横丁の小道、胡同の原型)、二十九の衖通巷通胡同の原型)があった。「道の端からもう一方の端を見渡すことができた。蓋しその配置は、こちらの門から街路を通じて遠くあちらの門を見渡すことができた。」官僚や貴族の邸宅も、八畝(1畝(ムー)は6.667アール。1アールは100平米)を一区画としていた。このため、坊巷(小路。町内)もたいへん規則正しく整っていた。当時、巷道を衖通、或いは故同と呼んだ。これは蒙古語の「水井」(井戸)の意味である。考古上の発掘調査で分かったことは、当時富豪の屋敷はゆったりした敷地になっていて、ある家屋(例えば后英房遺跡)の外壁の下部には「磨きレンガの継ぎ目が合う」ように積まれていて、室内は四角の磚が地面に敷かれ、彫刻で飾られた華麗な格子門が取り付けられていた。貧しい人々の家はたいへん簡単で粗末であった。城市の北部は土地が広いが住む人は少なく、貧民の居住区であった可能性がある。

 

 宮殿 城南の麗正門から入城し、北に七百歩進むと、まっすぐ皇城の霊星門の千歩廊に通じていた。皇城は元代には蕭墻と呼ばれ、俗には紅門欄馬墻と呼ばれ、周囲約二十里10キロ)であった。霊星門の内側は数十歩歩くと川が東に流れ、川の上には白石橋が三本架けられ、周橋と呼ばれた。石の欄干の上には龍鳳瑞雲の図案が彫り刻まれ、玉のようにきらめいていた。橋の下には四匹の白石の龍が置かれていた。河岸は悉く柳の木が植えられ、青々と茂っていた。西側は遥かに西宮と海子が望まれた。橋を渡って約二百歩で、宮城崇天門であった。宮城の周囲は九里三十歩で、城壁の高さは三丈(1丈は3.3メートル)五尺であった。城は長方形を呈し、崇天門の両側は、右が星拱門、左が雲従門であった。東西両側には東華門、西華門があった。北は厚載門である。星拱門の南には御膳亭があり、亭の東には拱宸堂があり、百官が会合する場所であった。宮城内の建物は、主に二組に分かれ、前方が大明殿、後方が延春閣で、全城の中軸線上に均衡を保って配置された。大明殿は、皇帝が即位し、正月、長寿祝いの時の朝臣との謁見、聴政の場所であった。青石に模様の刻まれた礎石、白玉の石園の置き石(磶。セキ)、紋の入った石とレンガを敷いた地面、上に敷いた重い敷物(裀。イン)、朱を塗った柱に金の飾り、龍がその上にからみついていた。四面に朱の鎖模様の透かし彫りの付いた格子窓、飾り天井の間には金の絵が描かれ、燕石(燕山産の玉に似た石)で飾られていた。二重の階(きざはし)に朱の欄干、金色に塗った銅製の鵃(トウ。ハトの一種)が飛び立とうとしていた。中に七宝の雲龍を設けた皇帝の御座、白い蓋の金縷の褥(しとね。敷物)。また后位も設けられた。諸王百寮(百官)、怯薛(禁衛軍)は宴席では左右に並んで侍っていた。前面には貯めた水を動力とする自動灯漏(時計)が設置され、小さな木の人形が時間になると木の札を取り出して時を告げた。御殿の中には木製の大樽が置かれ、内側は銀で包まれ、外側は金で包まれ、上面は雲龍が取り巻き、高さは一丈七寸、酒を五十石(1石は100升)余り蓄えることができた。彫像と酒卓が一脚あり、長さ八尺、幅は七尺余りであった。この他、たくさんの楽器が陳列され、その中には興隆笙があり、この楽器はパイプが九十並び、六列に分かれて柔らかい革袋につながり、ユウガオの実を使って圧縮した空気を送り、パイプによってリードの音が鳴った。笙の首は二羽のクジャクになっていて、笙が鳴って動くと、音に合わせてクジャクが舞った。およそ皇帝が宴席を催す時に、この笙が鳴らされると、他の楽器も合奏し、笙が止まると、他の楽器も演奏を止めた。皇帝、皇后、諸王、 禁衛軍の人々が席に就き、酒甕、酒卓と興隆笙を準備した。これはモンゴル初期の和林での宮殿内の配列と同じで、明らかにモンゴルの古い習慣を踏襲したものだった。伝えられるところでは、フビライは漠北からジンギスカン居地の莎草(ハマスゲ)を一株、内裏の赤い階(墀。チ)の下に移植し、これを「誓倹草」と名付けた。その意味は、子孫にモンゴルの元の純朴な風習を保つよう戒めたのだ。大明殿の東側には文思殿、西には紫檀殿があり、後ろは回廊があり寝殿に通じ、その周りを回廊で囲まれ、前門に通じ、前面には金紅(黄色っぽい赤)の欄干が取り巻き、一面に花が描かれていた。ここは妃や後宮の女たちの居所であった。

 

 寝殿の後ろは宝雲殿で、更に北へ行くと延春門、つまり延春閣で、階段があり、東側から三回折れ曲がって上に上がった。二重の軒、模様の付いた石畳の階、色とりどりの柔らかい毛の敷物が敷かれ、庇と帳が共に具わっていた。白玉の二重の階。朱の欄干。楼閣の上には皇帝の玉座があり、回廊の中に小山のような衝立とベッドが置かれ、これらは皆、楠で作られ、金の飾りが施されていた。後方の寝殿の中には楠でできた寝台が設えてあった。皇帝は通常ここで大臣と謁見し、仏事を修めた。楼閣の東には慈福殿があり、西には明仁殿があった。楼閣の後ろは清寧宮で、長い回廊で遠く延春宮と繋がり、何れも妃や側室たちの居所であった。その後ろが宮城の北門、厚載門で、御苑はここにあり、用水は玄武池から引かれ、吸水して植えられた花や木、五穀や瓜、野菜に灌漑された。

 苑囿 1162年(中統三年)、フビライは金代の瓊華島に手を加え、駐蹕(ちゅうひつ。帝王が行幸中に一時乗り物をとどめること)の場所とした。宮城の建物が完成後、ここを万歳山と改名し、宮苑の中心とした。

 

 万歳山は大内裏の西北、太液池の南にあり、南側に長さ二百尺(約67メートル)余りの白玉石橋があり、池の中心の園坻(池の中の小島。今の団城)と通じていた。小島の上には儀天殿があった。その東側には木の橋があり、大内裏の挟垣に通じていた。万歳山の上は山の峰や尾根が微かに映し出され、奇石、奇岩が巧みに配され、松やヒノキが生い茂り、その景観はあたかも自然にできたもののようであった。マルコポーロは挿絵を描いてこう記述した。万歳山は「人力で築いたもので、高さは百歩、周囲約1マイル(1.6キロ)である。山頂は平らで、一面樹木が植わっており、木の葉は落ちず、四季を通じ常緑である。」「世界で最も美しい木は皆ここに集まっている。君主はまた人に命じて瑠璃鉱石でこの山を覆わせた。その色は甚だ青く、これにより木の緑だけでなく、その山もまた緑で、全部が緑一色になった。ゆえに人々はこの山を緑山と呼んだ。」白玉石橋を巡って山の南に到ると、ここは奇妙な形の石が林立し、左右両方に山に登る道があり、「万石の中をめぐり、洞窟を出入りするうち、道に迷ったかのようになる。」山の中腹には仁智、荷葉、介福、延和の諸殿があった。山頂には広寒殿があった。至元二年(1265年)磨いて作られた瀆山大玉海(とくさんだいぎょくかい)はここに置かれ、「玉には白い模様があり、その形に合わせて魚や獣の形を刻み、波濤のような形状が表れた。その大きさは酒三十石あまりが貯蔵可能であった。」

瀆山大玉海

ある種の巧みな機械動力を通じ、また金水河の水を山の後ろで汲んで山頂に上げ、ひとつの石龍の口から流して方池に入れ、その後伏流して仁智殿の後ろに到り、石で刻まれた首を上げたとぐろを巻いた龍の口から噴出させ、東西に分流して太液池に入った。山の東は霊囿で、様々な奇禽異獣を飼育していた。