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北京史(十八) 第五章 元代の大都(6)

2023年06月15日 | 中国史

元順帝(トゴン・テムル)

 

第二節 大都の政治経済情況

 

元末の農民大蜂起の衝撃下の大都

 財政破綻の大都 元朝末年、政治の暗黒、財政の破綻、階級矛盾、民族矛盾がこれまでに無く先鋭化した。統治階級内部の対立、争いも増加し止むことはなかった。1333年、和世㻋(コシラ。廟号は明宗)の子、妥懽帖睦トゴン・テムル)が即位した。順帝(明の追諡。廟号は恵宗)である。この時、燕の帖木が病死し、伯顔(バヤン)が代わって立ち、朝政を一手に握った。続いて、伯顔の甥の脱脱(トクト)がまたその叔父と対立し排除し、代わって右丞相となった。財政を救済するため、通恵河の運輸を改善し、脱脱は1342年(至正2年)強く主張し金口を再び開き、新河120里余りを開鑿し、 渾河(こんが)の水を通州の南の高麗庄に引き、御河(南運河。海河流域、永定河支流、桑干河の支流)と合流させ、海運した税糧を引継ぎ大都城内まで運ぼうとした。全部の工事を4か月以内で完了させ、水門を開いて放水した。しかし水流の勢いが急で、泥や砂が詰まって、船が航行できず、埋めてしまうしかなかった。その結果、人々を労役で苦しめ、財政を浪費し、使った費用はおびただしいものだった。京師では脱脱丞相が無駄な川を開いたことを笑い種として広まった。その後、脱脱はまた1350年(至正10年)独断専行し、貨幣を改め、至正宝鈔を発行した。その結果、またも「これを行ってしばらくして、物価が高騰し、物の価格が十倍を越えた」。大都城中で料鈔10錠で1斗の粟に交換しようとしたが、得ることができなかった。京師から江南に行くと、『酔太平』という小令(元曲の一形式)が流行していた。「堂々たる大元、姦佞専権、川を開き貨幣を変えるが禍根の源。紅巾万千を惹きつける。官法が氾濫し、刑法は重く、民衆は怨む。人が人を食べ、貨幣が貨幣を買う何ぞ曾て見る。賊が官になり、官が賊になり、賢愚が混同する。哀しいかな憐れむべし。(陶宗儀『輟耕録』巻23)その実、元朝の病症は深く、救い難い状態になっており、決して脱脱が丞相になったことに始まるのではない。けれども脱脱が推進した財政を救う措置がでたらめであったので、その結果なおさら民衆の怨みが沸騰した。1341年(至正元年)以来、全国各地の人々の反抗闘争が、あちこちから巻き起こった。この年、山東、燕南では、「盗賊が縦横無尽に出没し、それが3百ヶ所以上に達した」。1342年、「京城の強賊が四方より立った」。1346年「京畿で盗賊が立ち上がった」、1347年「通州で盗賊が立ち上がった」。京城の天子のおひざ元で、民衆蜂起が火が原野で燃え盛るように起こり、その勢いは消し止めるのが困難だった。京師で流行った童謡に言う。「一陣の黄風一陣の砂、千里万里人家無し。振り返れば雪は消え見るに堪えず、三つ目の和尚は馬の目を見えなくさせた」。また言う。「塔は黒い。北人が主人となり南人は客。塔は赤く輝き、朱衣の男が主人公になった」。(『元史』巻51『五行志』第三下)これらは皆ひとつの角度から人心が揺れ動き、当時の嵐が起ころうとしている不穏な情勢を反映している。1351年(至正11年)江淮地区で勢いの盛んな紅巾軍が蜂起した。元朝の絶大な部分の軍事需要と、大都の様々な生活物資は、主に運河と海運に依存して取り寄せていた。統計によれば、平時には、毎年恵通河から京師に届く米は5百万石に達した。海運の食糧は最高で毎年350万石余りに達した。その他の官府に納められる賦税(征輸)を加えると、総計で毎年京師に入る歳糧は13508884石であった。そのうち江浙(江蘇、浙江)が40%強を占め、河南が20%強、江西が10%強、腹里(すなわち中書省直轄の河北、山東、山西等の地)10%強、湖広(湖南、広東)、陝西、遼陽が全部で20%であった。この他、また金3百錠余り(1錠当り50両)、銀1千錠余り、鈔1千万錠余り、生糸100万斤余り、綿7万斤余り、布帠(ふはく)48万匹余りを徴収した。(『庚辛外史』)これらの物資の半分は江浙より来た。農民蜂起は元帝国を腰のところから真っ二つに分断した。「蘇州を失い、江浙から届かない。湖広を失い、江西から届かない」。そして「元京は飢え困窮し、人が人を食べた。」これに加え、中原は毎年干ばつとイナゴの害で、田畑の穀物は悉く空となり、人は食べ物が無く、イナゴを取って食料とした。元朝は瞬く間に政治が麻痺状態に陥り、財政は破綻状態であった。

 

 食糧の欠乏を救済するため、1352年(至正12年)、脱脱の建議により、北京郊外の西の西山から、南は河間、保定まで、北は檀州、順州まで、東は遷民鎮(今の河北省秦皇島市東の山海関)の地まで、稲田を開拓し、江南の農民を募集し、法律を制定し田を耕し、司农司を分けて指導させた。年間収入は20万石に達し、これを「京糧」と名付けた。実行の過程で、官吏は屯田を名目に、ほしいままに良田を占拠し、人々に苦痛をもたらした。これに加え、官吏の統治は腐敗し、管理が混乱し、使った費用は極めて多かったが、その成果は焼け石に水で、欠乏を和らげるには百に一つ、遠く及ばなかった。特に中原地区の農民蜂起の高揚に伴い、また大量の山東、河南、河北の人々が逃亡して大都に入り、城中の人口が大量に増加し、食糧問題は更に深刻になった。凶作が大都城をすっぽり覆い、疫病もそれにつれ猛威を振るった。1358年、1359年(至正1819年)の間、人々の餓死、病死は百万人近くに達した。大都城の十一の城門の外に、それぞれ万人坑を掘って死体を埋めた。この時の大都は既に見渡す限り荒涼とし、生活が困窮してたまらず、もはや昔の状態に戻ることはなかった。

 

 北京郊外の破壊はとりわけひどかった。官軍は貪欲で狂暴で、「京師は煩瑣で規律が無く、数百里内では人をさらって食料にし、府県を率先して破壊した」。北京郊外の諸城は、涿州が比較的良い状態を保っていたが、このためなおさら諸軍閥が垂涎を垂らして占拠する目標にされた。1359年(至元19年)3月、官軍の一師団が涿城に入って割拠し、「人々の鼎や鍋で油を煮られる者(食べられた者)は毎日合わせて何千何百になり」、このような状態がずっと15日続いてから去って行った。その翌年の4月、また別の一師団が州城を陥落させ、財物を掠奪し焼き払い、より残酷極まる状況だった。(『日下旧聞考』巻129『京畿・涿州3』、夏以忠『昭祐霊慧公廟碑記』)涿州の一例を通して、北京郊外各地の破壊が如何に深刻な程度に達していたかをあらまし知ることができる。

 

 一面では餓死者が町中に溢れ、至るところ、故郷を追われ、苦しみうめく被災者がいた。また一方、元朝の最高統治者である順帝は、逆に益々贅沢で堕落した生活に溺れていた。吐蕃(とばん)の僧が順帝に荒淫を欲しいままにするよう教え、また彼に人生はいくばくも無く、我が「秘密大喜楽禅定」を受けよ、と言った。そして、皇帝は毎日その法術を行い、広く婦女を集め、公然と淫乱行為をし、「聞くに堪えない声、みだらな行為がはっきり外まで聞こえ、市井の人々といえども、これを聞いて憎悪した」。彼はまた宮女を選んで十六点魔舞を踊らせ、荒淫の宴を楽しみ、夜も昼間のようにして騒いだ。倉庫に保管した穀物を、悉く寵愛する女につぎ込み、百官の俸禄は、茶、紙、こまごまとした物で帳尻合わせがされた。順帝、奇后、皇太子が互いに対立し、朝臣もそれぞれ徒党を組んだ。地方で軍を擁立し対立していた孛羅帖木儿(元末の将校。ボロト・テムル羅」はモンゴル語で「鋼鉄」の意味))と拡廓帖木儿(ココ・テムル 。「拡廓」はモンゴル語で「青」の意味)が、互いに腹をさぐり合い争った。 羅帖木儿は二度、兵を挙げて北京を攻め、 奇后を監禁し、皇太子を追放し、自ら大権を一手に握った。1365年(至正25年)6月、順帝は羅の侮辱に耐えきれず、人を遣って羅を刺殺させ、また人々に、羅の統率する川軍を見たら皆殺しにせよと命令を発した。人々は次々家の屋根に上がり、瓦や石を投げ、川軍の死者は町中に溢れた。続いて拡廓帖木儿が兵隊で太子を護衛して北京に戻って来た。彼らの隊伍が入城する度に、城内では何度も掠奪が行われた。

 

 紅巾軍の北伐 1358年(至正18年)韓林儿、劉福通が率いる紅巾軍3ルートから大挙して兵を進め、西路が関中に出て牽制の役割を担った以外、他の東路中路は大都の包囲、奪取を目標としていた。

元末農民蜂起と紅巾軍の北伐ルート

毛貴が率いる東路軍が2月に済南を占拠後、勝ちに乗じて北にまっすぐ進み、清、滄、長蘆を攻略した。3月、漷州(今の河西務。天津市武清区)に迫り、先鋒は既に大都から120里の棗林(今の通県東南)に達した。元の枢密副使達国珍は戦いに破れ殺された。元の朝廷はあわてふためき、群臣の多くは都を移し、しばらく避難するよう主張した。丞相の賀太平は力攻めはだめだと考え、急いで彰德(河南省安陽)に軍を駐屯させている同知枢密院事の劉哈剌不花に阻止に行かせた。毛貴の兵は挫折し兵を済南に後退させた。

 

 これと同時に、関先生、破頭潘らが率いる中路軍は、衛輝、彰德の一線で元朝が駐屯させている大軍を避け、山西に進入し、勝ちに乗じて北上した。この軍隊は「ルートを分けて太行山脈を越え、上党を焼き、晋、冀(河北)を掠奪し、雲中、雁門、代郡を陥落させた」。

元末紅巾軍系統

関先生は東に保定を攻めたが、攻略できなかった。この時、毛貴の東路軍は既に引き揚げ、策応(友軍との連携作戦)ができなくなった。察罕帖木儿(チャガン・テムル。モンゴル語で「白色の鉄」の意味)の大軍がまた南山の帰路を封鎖した。この農民軍はそれで塞外へ遁走した。12月、上都を攻略し、宮殿を焼き払った。その後、東の遼陽に進出し、朝鮮に入ったが、最後には失敗に帰した。しかし王士誠が率いる蜂起軍が依然晋北地区で活動し、引き続き北京の西側一帯を威嚇した。元の朝廷は羅帖木儿(ボロト・テムル)の軍を移して大同を鎮圧させ、以て京師への侵入を防いだ。1359年(至正19年)3月、京城北兵馬司指揮の周哈剌歹と林智和らが謀反を図ったが、事前に発覚して殺された。農民蜂起のうねりが猛威を振るい、京城の官僚、貴族は恐怖のあまり生きた心地がせず、京師の11の城門には皆甕城(城門の外を取り囲む半円形の小城郭。櫓)を築き吊り橋を架け、防御を強化した。1368年(至正28年)、朱元璋南京で皇帝の位に付き、建国し国号を明とした。大将の徐達、常遇春に命じ、大軍を率いて北伐させた。明軍は山東、河南を攻略後、軍馬を集結させ、山東から運河に沿い、水陸両方で前進した。閏7月、通州を攻略し、元の知枢密院事卜顔帖木儿を殺した。28日、順帝は清寧殿で御前会議を召集し、北の上都に逃げることを決定し、淮王帖木儿を不花監国、慶童を中書左丞相とし、共に京城を守らせた。その晩の夜半、順帝は健徳門を開け、急いで北に逃げ、従者は百人余りに過ぎなかった。北に居庸関を過ぎると、道路は人影がなく、関所には一兵もいなかった。82日、明軍は大都城下に到着し、斉化門に猛攻を加え、将兵は塹壕を埋め尽くして城に登って侵入し、帖木儿不花らは皆捕らえられ殺された。元は滅亡した。