中国語学習者のブログ

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《紅楼夢》の中の節句行事(2)

2011年09月01日 | 紅楼夢

 ※挿絵: 賈母受大家的礼

 前回は、春節前の年越しの行事として、12月8日の“臘八節”から、恩賞の銀子の受け取り、祖先を祭る宗廟の礼拝の様子などについて述べていましたが、次には皆のお楽しみ、“圧歳銭”、お年玉が待っています。《紅楼夢》の中での春節の行事の風景について、見ていきます。

■[1]
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・荷包 he2bao1 昔の中国服にはポケットが付いていなかったので、様々な形のポシェットを肩から掛け、その中に細々とした小物を入れて携帯した。絹の布地で作られ、色や形は様々で、刺繍などで飾り付けたものも多い。
 

□ 若い人たちにとって、年越しはこの上なく幸福である。それはただ、年長の人たちがお年玉をくれるからである。では、賈府の中ではどのようであるのだろうか。
 ご隠居様は宗廟から出て来ると、先ず寧国府へ行って、皆の挨拶を受けた。なぜなら彼女の世代の老人の中では、彼女が代表で、長幼の順が一番だからである。それゆえ、彼女に寧国府に来てもらい、屋敷の中で座ってもらい、一族の人々の、ひざまずいて地に頭をつける礼を受けた。一人ずつやって来て、挨拶が済むと、今度はご隠居様から、お年玉を渡し、荷包を渡した。

■[2]


・寒門小戸 han2men2 xiao3hu4 “寒門”も“小戸”も「貧しい家」の意味。
・前儿 qian2r (=前天)おととい。一昨日。
・[金果]ke4 昔、貨幣として使用された、金や銀の小さな塊。
 

・磕頭 ke1tou2 ぬかずく。頭を地面につけて拝礼する。
・奢靡 she1mi3 贅沢三昧

□ お年玉は、今日もまだ有り、赤い紙袋に、お金を入れて、挨拶をしてから、年長者が年少者に手渡す。現在、次第に“利市”という呼び名に変わっている。会社でも渡すし、プライベートでも渡すし、正月にお年玉を渡すのは、皆がよく知っている行事となっている。
 当時のお年玉は、現在とは少し異なり、第一にそれは正月の一日に渡すのではなく、大晦日に渡し、年越しの時に渡した。どれだけの金額を渡したか。貧しい家では、普通、渡す金額はたいへん少なく、形ばかりのものだった。賈府のような貴族、諸侯の家では、その様子は全く違ったものであった。
 どれだけの金額を渡すのか。《紅楼夢》53回を見てみよう。賈珍と尤氏が部屋で座っていると、召使の女がお盆を捧げ持って入って来て、こう報告した。興儿からお盆を持って行くように言われました。また興儿の話を告げた。おととい、153両6銭7分の金の粒を型に入れて、220個の金の塊を作りました。
 “傾”とは、型に入れて、一個一個の小さな塊の金を作ることである。金の塊はどれくらいの大きさか。一般には一両(50グラム)以下である。153両6銭7分の金の粒を型に入れて、220個の金の塊を作ったのだから、計算するとだいたい1個が7銭(約35グラム)である。それを捧げ持って来た。尤氏が受け取って見てみると、梅の花の形のもの、ハスの花の形のもの、如意の形のもの、八宝連春(仏法での八種類の宝物の図案を連ねたもの)の形など、様々な形の小さな金の塊であった。これを何に使うのか。大晦日の日に、お年玉として配るのである。
 賈府でお年玉を配る時は、金の塊を配った。1個が7銭の重さである。7銭の重さの金の塊はどれくらいの金額に相当するのだろうか。烏進孝が地租を納める時、賈蓉と少し話をしているが、その中でお妃さまが年越しをされる時は、最高で百両の金をお渡しになるが、それは銀千両余りに相当する。金と銀の交換レートは、変化が大きい。最も古くは1:5で、後に1:10、嘗ては1:30、1:50で交換したこともある。いわゆる“換”というのは、銀何両を金1両と交換するかということである。曹雪芹の時代には、当時の物価からみて、だいたい金1両が銀数十両と交換された。
 私たちは劉ばあさんが言った次の話を参考にすることができる:「あんたがたのお屋敷では、蟹(上海ガニ)を一回食べるのに、20両の銀子を使われる。銀子20両といえば、私たち農家の者が一年暮らしていける。」それなら、7銭の金は、だいたい銀10両くらいなので、つまり、お年玉で渡される一個の金の塊は、劉ばあさんのような家では、半年分の生活費に相当する。
 ましてや、中にはもらえるお年玉が、一個の金の塊に止まらない人もいた。例えば、賈宝玉は、新年の挨拶の時は、全ての年長者に対し、額を地面につけて拝礼し、彼らは皆お年玉をくれるので、一人賈のご隠居様に止まらない。もし宝玉のような人物に金の塊をあげないなら、他に誰に渡すというのか。賈宝玉がもらえるお年玉は、きっとたいへん多いに違いない。具体的にはどれくらいもらえるのか。紅楼夢の中では書かれていないが、私たちはこう想像すればよい。彼はどれくらいの年齢の世代か。彼が額を地面につけて拝礼しなければならない相手は何人いるか。毎回、無駄に頭を下げる訳ではない。しかもこれは寧国府だけの話であって、栄国府の分はまだ勘定に入れていない。
 次に、尤氏はまだこう言っている:前に言ったあの銀の塊を、あの人に言いつけて早く配ってくださいな。どうです、まだ銀の塊がある。つまり、お年玉を配るのには、ランクが分かれていて、どのような人は、金の塊を配り、どのような人は、銀の塊を配るかの別がある。
 賈府で配られるお年玉から、こうした貴族、諸侯の家の贅沢な生活が見て取れる。年越しの、一年に一回のこととはいえ、これはたいへんなことだ。

■[3]


・博大精深 bo2da4 jing1shen1 学問などが幅広くて深いこと。
・可見一斑 ke3jian4 yi1ban1 一端が垣間見られる。→本来の成語は、“管中窺豹kui1bao4,可見一斑”管を通してヒョウを見ても、斑紋の一部は見ることができる。(そこから転じて)見方が狭くても、およその見当はつく。前句、後句それぞれ単独でも、同じ意味で用いられる。
・登峰造極 deng1feng1 zao4ji2 [成語]学問や技能が最高潮に達する。
・経意 jing1yi4 注意する。

□ 中国文化は非常に幅広くて中身が深く、非常に具体的な物にそれが現れる。お正月に人々が身に付ける装飾品での、その一端が垣間見られる。我が国の古代の男女は、荷包(小さなポシェット)を身に付ける習慣があった。それが清朝になって、最高潮に達した。上は皇族百官から下は平民大衆に至るまで、皆が精緻に作った荷包を身に付けた。荷包は一般に祝い事の時に、贈り物として親しい友人に贈られた。或いは男女が愛し合い、婚約をしたしるしとなった。それでは、小さな荷包の中にどのような伝説や物語、深い寓意が含まれるのだろうか。
 紅楼夢という本は、わざとその王朝や年代、地方や国を、ぼやかせた。これはその芸術的な意向に則らせるためである。けれども、しばしば注意しないうちに、その時代の情報が漏れ出す。荷包もその一例である。なぜなら荷包が広く使われるのは、清代に於いてであり、清朝以前は、荷包はめったに使われなかった。

■[4]


・華佗、或いは華陀 hua2 tuo2 後漢末、魏初の名医。字は元化。麻沸散(麻酔薬)による外科手術、五禽戯と称する体操などを始める。曹操の侍医となったが、後殺された。
・孫思邈 sun simiao3 581(西魏大統7年)~682(唐永淳元年)京兆華原(現在の陝西省耀県)の人。一生を漢方薬の研究に充て、峨嵋山や終南山で薬草の採集を行いつつ、臨床試験を行った。中国で系統的な漢方研究した先駆者。
・守歳 shou3sui4 大晦日の夜、寝ずに年越しをする。
・総而言之 zong3 er2 yan2zhi1 [成語]要するに。
・討口彩 tao3 kou3cai3 “口彩”は縁起の良いことば。“討口彩”で、縁起の良いことばを追い求める。

□ ご隠居様は新年の挨拶を受けた後、家族が集まり宴会が始まる。宴会では、一つ一つの料理について細かくは紹介しないが、いくつかの特別なものについて見てみよう。その中で、最も特別なものは、“屠蘇酒”と呼ばれる。“屠蘇酒”とは何か。
 北宋の王安石に一つの詩があり、こう言っている:「爆竹の音の中の今年の大晦日、春風が温かい風を屠蘇に吹き入れる。」嘗ては年越しの時、どの家でも屠蘇を飲んだ。これは一種の薬酒で、華佗が処方したものである。後に、孫思邈がそれを伝え、今日でもこの処方が存在する。
 年越しの前に、この薬を調剤して布で包み、井戸の中に吊るしておく。大晦日に、取り出して、これを酒に漬ける。大晦日が過ぎ、年越しの食事の時、家中の老いも若きも皆が飲む。これは邪気を払い、不浄を遠ざけ、百病に罹らぬよう、予防的な意味もあるものである。これは儀礼上の意味だけでなく、一種の健康保険食品であった。
 この酒を飲む時、飲み方も特別であった。一般に家の中では老幼の順序があり、酒を飲む時は、年長者が先に飲み、年配の人を敬った。屠蘇酒はしかしこれと異なり、年齢の最も小さい者から飲み始め、長幼の順序の最低の者が先に飲んだ。
 蘇東坡にそれにちなんだ詩があり、毎年最後に屠蘇を飲んだ、と言っている。年齢が高いと、毎年の年越しで、いつも屠蘇酒を飲むのが一番最後であった。彼の弟の蘇轍にも詩があり、最後に都市を飲むのを辞せずと言っている。これも年齢が高いから、屠蘇酒を飲むのが最後であったと言う。
 爆竹の音の中、大晦日を迎え、年越しは寝ないで過ごすのは、賈家も例外でなく、一家団欒して、屠蘇酒を飲み、“合歓湯”を飲み、“吉祥果”も有り、“如意糕”も有りで、しかしこれらのものがいったい何であったのかは、もはや考証しようが無い。要するに、皆縁起を担いだ食品である。
 これらのものを食べ終わった後も、まだたくさんの行事が有り、先ず爆竹を鳴らす。これは紅楼夢第54回で書かれていて、パチパチと爆竹が鳴ると、林黛玉は体が弱いので、ご隠居様は林黛玉を胸の中に抱きしめた。賈宝玉、史湘去、薛宝釵も大人達に抱きしめられていた。この時、王煕鳳が言った:私だけ誰も抱いてくれないのね。王煕鳳という人はたいへん可愛らしい人で、時にはチャンスがあると可笑しなことを言って、皆を楽しませてくれる。尤氏はこう言った:よしよし、私があなたを抱いてあげるわ。
 これは紅楼夢の中の、爆竹を鳴らす時のたいへん心温まる場面である。これは大晦日の晩に、賈府の中の寧国府と栄国府で起こった一連のお話である。
 そしてここから見て取れるのは、中国の伝統的な節句である春節は、いつ如何なる場所でも、当時の人にとって厳粛なものであり、私たちにとっても、紅楼夢のこの一節の描写は同様に研究する価値のあるもので、それは我が国の古代、とりわけ清代に、裕福な家の風習がどのようであったかについて、充分な描写である。同時に、裕福な家と貧しい家の生活との間には、大きな格差があったのである。

(次回に続く)


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