もう一つの風景
23
取り次ぐ電話の数も徐々に少なくなった。
Kはテレビを見続けた。木田が忙しそうに、電話の取り継ぎや救急車の応対に走り回っていても、彼は、無視し続けた、それは彼の仕事であり、自分には無関係なことだった。
「Kはん、もう、ねてもうてもかまへんで」
やっと、夕刊にありつけた木田が言った。
「ちょっと、電話してみいや、病室にいるようやったら、お役御免や。帰るで」
「いまからかいな、電車あらへんで」
その時、電話が鳴った。
「やっぱりきた、Kはん、今晩もや」
「なにをさらしとんのや看護婦は。三晩続けてやでほんまに」
Kは大儀そうに立ち上がり、大きな欠伸をした。
午前一時、真夜中のかくれんぼ。
どちらが、鬼なのか?
捕まえられたくて、逃げ回っている鬼もいる。
「とにかく、屋上を見てくるわ。看護婦がくるよって、電話番頼んで、あんたは、地下から上がってや。エレベーターのとこでガッチンコしょうや」
鍵の束をKに投げてよこして、自分も鍵の束をガチャガチャ鳴らすながら、エレベーターに向かってかけだした。
エレベーターから降りてきた看護婦と木田は二三言言葉を交わし、木田はドアに吸い込まれるように姿を消した。
「なにしとったんや、気いつけいわれとったんやろ」
看護婦はゆっくりと歩いてくる。
「そんなこといわれても、しゃないわ。お産が二つもあったんやから。じっと見張ってるわけにいかへん」
「いつごろや、おらへんようになったんは」
「分からへん。部屋の患者さんは、布団がふくれてたよって、気つかへんかったいうてるし。ほんま、迷惑や、死産はしゃなかったんやし、いつまでも、くよくよしてもしゃないのに。それに、病院中走り回ったり、隠れたり、遊んでんのちゃうか」
看護婦は馴れたしぐさで電話の前に腰を下ろした。
「今日は、何時になるやろ、仮眠の時間やのに」
Kは鍵の束を、ガチャガチャいわしながら地下に降りた。
階段を降りながら、闇の中に落ちていくような気がした。
必要最小限の明かり。十時に、木田が、明かりを消して回った通路は、ひんやりとした空気のなかに沈んでいた。
ここは何処なんだろう、ふと、Kは思った。彼の馴れ親しんだものが全て昼間とは違った顔を見せている。不連続な影が、壁を嘗め、ドァのノブがやけに目立つ。
ノブを一つ一つ回す。
冷ややかな感触は、彼の行為を拒否し、その無意味を囁くようだ。
木田が降りてきて、女が飛び降りた事を知らせれば、それは終わる筈だった。その方が彼には都合のいいことだった。こんな真夜中まで、いやな職場にいる必要もなくなるわけだ。
小さな声で呼んでみた。
「もう、出てこいよ。風邪ひくで」
声が途切れると、自分の息と、微かなモーターの音の中にいる。やはり、ここは土の中なのだ。女は死産したと聞いた。それで男と別れたらしい。どんな事情があるのか詳しい事は知らない。ただ、死と生との同居した建物の中を女は気の狂ったように真夜中にやみくもに走りだす。
Kは、女を捜しているのか、女に自分が捜されているのか分からない奇妙な気分になった。物かげに隠れて女は彼を見ているのかも知れない。または、彼を、病院中捜しているのかもしれない。どちらが鬼か分からない。
もういいかい、もういいよ、と声を掛け合いながら、互いに見えない相手を捜し始める。
「一体お前は誰なんや」
Kは言った。
「あんたは誰なんや。誰を捜してるんや? なんのために」
女が言った。
「なんで隠れてるんや?」
Kが言った。
「捜してもらいたいからや」
女が答えた。
壁を手で撫でながら、時々、思い出したように唾を吐きながらKは進んだ。
「苦しいんはあんただけやないんや。わしもねむとうてしゃないんや、酒ものまんと、仕事しているもんの身になってえな。人に迷惑かけんと、もう、出てきてもええやろ。明日はもうすぐくるんや。人間生きられても、死ぬまでや、それまで、楽しいすんのも、苦しむんも、わがの考え一つや。死んだ子は、あんたがなんぼ思うても帰ってこうへん。そんなことで、別れてしまう男やったら、丁度ええときに本性見た思うて、あんたから、さいならしたったらええんや」
突然足が止まった。
―開いてる―
霊安室のドァが半開きになっている。
身体は通り過ぎたのに、片目がその様子を捉えた。
To be continued