創作日記&作品集

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連載小説「もう一つの風景(22)」

2016-03-03 07:49:42 | 創作日記
もう一つの風景

22

「厨房で、木村さんまだ仕事しとるで」
 戸締まりを見てまわったきた守衛の木田がKに言った。
 Kは夕刊に落としていた目をふと上げた。木田の口元がまだなにか言いたそうに、ヒクヒクと動いている。六十才の木田が相手のまだ知らない噂や卑猥な話をする時に決まって見せる仕草だった。
「ええ、尻しとるであの女。皿洗しとる後ろから見とったんやが、ほんまに男誘うように動きよるんや。後ろからむしゃぶりついたろか思うで」
「むしゃぶりついてなにするんやな」
 夕刊を机に投げて、Kは煙草をくわえた 「あほにすんな、わしはまだ現役や」
 あほにすんなか、それもその通りや、Kは自嘲の笑いを浮かべた。あと二十年経って、木田のかわりができたら御の字だ。
「嘘やおもとるんやろ」
 木田が幼児じみた執拗な目でKを覗き込む。Kは木田を無視して煙草を吹かした。
「まだはじまらへんな」
「看護婦も気をつけてるんやろ」
「あと一時間したら、帰るで。救急車も今日は少ないしもうええやろ」
「課長には一晩中の約束や」
「そりゃ、おんどれがせへねやから、なんぼでもええかっこいえるわ」
 突然血が逆流するような怒りがKを襲った。何時もの酒屋で一杯と帰りを急いでいたKに、年が五つも若いあいつは、ニヤニヤした笑いをつくって近づいてきた。木田のじいさんが困っとるんや、一人やったら身体がもたんいうて、つきあったてえな。その言葉に少しは反感する態度を取ったものの、結局は応じてしまった自分の立場の弱さへの苛立ちも彼の怒りの中に含まれていた。また、その分だけあの男に対する憎しみが相乗的に増加したともいえる。しかし、想像の中で彼を痛めつけるしかない。裏で罵声を浴びせるしかない。
「まあまあ、ここ二日三日のことや。あいつもよその病院に移す話はついたというてたし、もし変なことになったら世間体悪いと一番心配してるんはあいつやから」
 院長をあいつと木田は言う。一般職の仲間うちでは医者をよびすてにする。彼らは医者を自分たちと同じ視線に置いてなんやかやと論評した。出身校から家族、医者の派閥にい
たるまで彼等の知識は豊富だった。
*                 
 廊下を走る足音は房子の背後を通り抜け、霊安室の角を曲がったように思ったとたん、急に、中途半端に消えた。
 空耳かもしれない。コンクリートの廊下をを裸足で歩くような、奇妙な音だった。死体を運ぶ騒がしいストレッチャーの音を聞き馴れた耳には、余りにも微かで、子供が楽しそうに駆けていくような音だった。

 Kは四畳半の守衛室の畳に寝そべり、頬杖をつきながらテレビを見ている。可笑しくもなんともない画面だ。何が映っているのかも知らないように、只、人が動き、しゃべり、笑う、小さな動く写真を眺めている。Kは何も考えない。考えたところで、何も変わるものではない。食べる為にのみ働き、いつも腹一杯に不満を膨らませ、何時かは周りをみかしてやると呟きながら、小心故に何も出来ず、井戸を覗いて底に映る自分の顔に思わず唾を落としたくなるような劣等感を、四六時中抱いている。
 背後で守衛室の窓を開ける音がして、木田と房子の紋きり型の会話を聞いた。
「おそうまで、ご苦労さん」
「おさきに、おつかれさんです」
 木田のじいさん、お茶でもというたらんかい、と、くちごもりながら、Kの身体は少しも動かない。
 僅かな金をすこしずつ貯めて、酒の力を借りて女を買いに行く。行き当たりばったりの女との、泥酔のなかでの性交は、なんの目的もない遊戯に似ていた。結婚なんて一回限りで十分だ。女は金で買える。そう言えば二万円は3回分だなあ。無駄遣いをしたもんだ。財布を落としたか。残りの飯を握る女の財布の中身を見てみたいもんだ。また、そんな女にしている男の顔も見たいもんだ。房子が男に抱かれている姿を想像した。房子の身体の細部を覗き込むようにして思い浮かべた。何もない、泥酔のなかでの、性交のように、何も映っていないテレビの画面のように、只、白く、眩しく光っているだけだ。To be continued