
もう一つの風景
8
「おせっかいかも、ひょっとしたら迷惑かもしれへんけど」
庄三は目を窓の外に向けたまま話をきりだした。房子も同じように目を窓の外の、時々舞い落ちる花びらを見るとはなしに見ていた。
「えっ」
と、思わず叫んで庄三を見た。色彩のない記憶の光景。何もかもが白と黒の濃淡の中で動いているモノクロの写真のような記憶のネガ。房子は過去の光景から現実に戻った。
「知り合いと言えるほどやないんやけど、娘さんを一人知っているや」
房子と同様に老人会の世話をしている若い女性がお茶を二人の前に置いた。
房子は両手で挟むように湯のみを持った。手に伝わる暖かさが次第に色のある世界の生気を取り戻し始めた。
「息子さんは独身や聞いたけど」
「へえ、それが?」
房子らしくないもの分かりの悪さに、庄三は唖然となった。
*
すこし遠いが敏子の家に寄ろうと思った。先ずは釣書を交わさなければならない。歩きながら、要らぬ世話を焼いているのかもしれないと思うが、何故か敏子をこのままにしておけないと思う気持の方が強かった。自分が動かなければ、二人は一生知らないで終わってしまう。それなら、知り合ってからでも遅い筈がない。
今日は日曜日だから、敏子は家にいるだろう。不在なら又電話でもしてなるべく早く話をしなければならない。
庄三の放った石を、房子はこう言って受けたのだ。
「気にとめてもうておおきに。よろしおたのみます」
そして、突然目頭を押さえた。
「おかしいでっしゃろ。うちみたいもんに気い遣てもうて」
老人の世話をする房子は全てにてきぱきとしていた。妙な遠慮もなくはっきりと物を言うので、かえって老人に受けがよかった。
「家は俊徳道やったな」
「そうです。学校の前で文房具店してます。夫は死別で、お話もろた息子と二人暮らしです」
それは、前から知っていることだった。そして、庄三が房子について知っている全てだった。
敏子は庄三を見て一瞬不思議そうな顔をした。
「突然よせてもうて、忙しかったら、出直してきますけど」
「いいえ、忙しいことなんかあらへんけど、ちょつとびっくりした」
居間にあった道具はきれいになくなっている。
「今、新婚旅行にいってますね」
「何処へ」
「ハワイ」
「へえ、それは豪勢やな」
敏子とは二三言葉を交わすと直ぐに打ち解けることが出来る。十年以上会う事がなく
ても、そうだった。少し人見知りする性格の庄三には不思議な相手だった。
「色々と大変でしたやろ」
「もう、気ばっかりつこて、ドジなことばっかりしてましてん。花嫁、花婿よりあがってたいうて笑われてます」
女一人の家で長い無駄話はいけないと思い、話の腰を折るように少し改まって言った。
「今日寄せてもうたんは、縁談の話をさせてもらおと思いましたんや」
「縁談? 誰の縁談ですの?」
敏子は動揺の間を言葉で繋いだが、目には狼狽の色を隠せなかった。
「突然こんな話をして、非常識や思うたんやが、前からええ人いてたらと、頼まれていたんで、つい、敏子さんどうやろと思って。今日、その人、お母さんなんやが、おおて話したら、向こうさんはよろしい頼むということになって、そんなら、こちらも、はよう話せなあかんと」
「お茶いれます」
敏子は庄三の言葉を遮るように言って、居間の奥に消えた。
庄三の話には、後先の嘘があったが、彼の中だけのものだった。しかし、何故か後ろめたい気がした。
「ちらかってますけど、どうぞ、上がって下さい」
「いや、ここでよろしおます」
庄三は上り框に腰を下ろした。
気を落ち着かせる為に、煙草を吸った。そして、灰皿がないのに気付き、慌てた。
敏子がお茶と一諸に灰皿を置いたので、ほっとした。
「急にやから、うちなんてなんていうたらええか」
「そらそや、しかし、昔とちごて、気楽に考えてもええのちがうな」
「話もってきてくれはったん、私、本当に嬉しい思います。弟夫婦は何にも言わへんし、色々と気をつこてくれます。せやけど、私のひがみやと思うけどやっぱりいにくうなった」
そう言って、敏子は他人に言うことではなかったと後悔した。
庄三はゆっくりと、煙草をくゆらせた。
「うち、なんや、しょうものないこと言うてるわ。弟にお嫁さんがきて、ちょっと嫉いてるんかなあ。うちの縁談となんにも関係あらへんのに」
住みにくくなったから、もの欲しそうな目をして縁談に飛び付く、そう思われるのが死ぬほど嫌だった。
「十年以上も会わんと、わしがひよっこりあんたの前に現れたんもなんかの縁や、ここでこうしてこんな話してんのもなんかの縁や。こんないい方したないけど、年寄りの顔たてて、釣書だけでも書いてくれへんやろか。相手さんのを見てからでも遅うないと、思うんやけど」
「釣書?どう書くんかわからへん」
「履歴書みたいでええんや。生年月日と家族、勤め先、趣味、それに写真。写真は改まったんやのうてもええ。自分の感じがよう出てると思うんが一番や」
「両親いてへんの知ってはりますか?」
「知ってはる。相手さんも片親なんや」
二人は黙った。表を子供達が騒ぎながら通り過ぎて行くのが聞こえる。耳を澄ますと、微かに機械の音がする。色々な音が混ざり、それらがこの町に溶け込んでいるように思う。大阪の下町の角を曲がれば、何処にでもある場所だ。

To be continued