いかりや爆氏の毒独日記

最近の世相、政治経済について「あれっ?と思うこと」を庶民の目線から述べていきたい。

広島原爆の日:人類は「核」との共存はできない、これが原発問題の本質、

2012-08-06 20:02:21 | 日記

 本日は広島「原爆投下」から67年目、「放射能被害」と言う点では、東電福島原発事故による被害と何ら変わるところはない。福島の原発周辺に住んでいた人たちは、未だ故郷に戻れない原発難民は10万人とも言われる(政府は調査しているはずだが、難民数を公表していない)。事故そのものも、終息していないが、原発難民に対する手当ても全く不充分なものであり、多くの人が路頭に迷っている。

 福島原発事故は、日本人の心を大きく揺さぶるものだった。

 過去にも述べたが『人類は未だ放射能をコントロールする技術を持っていない。多分、未来永劫、放射能をコントロールする技術は持ち得ないだろう』、放射能をエネルギー源として使うことは、人類とっては「禁断の果実」みたいなものです。 いったん暴走をはじめた原子炉から、放射能を取り除くことも消すこともできない。人類は「核」との共存はできない。これが原発問題の本質ではないか?
 
 広島、長崎への原爆投下がもたらした大惨禍を知る日本国民にとって、福島原発事故は、国民の心のなかに秘かにくすぶっていた「核」に対する恐怖をが顕在化させた。

 国を挙げて「安全神話」を振りかざしていただけに、特に日本の原子力関係学者・研究者たちが言うのだから「間違いはなかろう」という信頼感がもろくも崩れ去った。彼らは、福島原発事故による「核(放射能)の暴走」に対しては全く役立たずの無力であることが明らかになった。国に対して又、原発を推進してきた学者や文化人に対する不信感は大きい。

 こうしたなかで、昨年6月11日には全国で反原発デモが巻き起こった。しかし、マスコミは、反原発デモを最近まで大々的には報道しなかった。その後この反原発のデモは1年以上経過した今でも沈静化するどころか、毎週金曜日の夜のデモとして定着し、規模を拡大させている。1960年代の反安保デモのように組織化されたデモではない、国民の自発的参加型のデモであるところが特徴であり、国民もようやく目覚めつつある。国民の政治に対する不信とともに原発村に対する不信感は消えないだろう。

 野田首相は本日「広島原爆の日」の式典に出席、型通りの「平和祈念式あいさつ」を述べた、その一部を転載します。

 ”人類史に刻まれたこの悲劇を二度と繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国として核兵器の惨禍を体験した我が国は、人類全体、地球の未来に対して、崇高な責任を負っています。それは、この悲惨な体験の「記憶」を次の世代に伝承していくことです。「核兵器のない世界」を目指して「行動」する情熱を、世界中に広めていくことです”

 原発事故の「核」の恐怖を語ることなしに、原発再稼動に踏み切った野田首相に、「広島原爆の日」の式典に参加する資格なし「核兵器の惨禍を体験した我が国は、人類全体、地球の未来に対して、崇高な責任を負っています」などとよくも空々しく言えるよなあ。

蛇足:
「社会保障と税の一体改革」法案は、野党が今週中にも内閣不信任案を提出する準備を進めていることから風雲急を告げる事態になっている。

結局は、野田首相は自民党案に抵抗するフリを示しながら、消費増税の採決を前倒して「増税法案」を成立させて「後のことは知ったことか」とばかりに、「食い逃げオレオレ詐欺解散?」するのではないか。

 さもなければ、消費増税信者である谷垣氏(自民側)が折れて、野党の「不信認案」を否決するか、のどちらかだろうという気がする。どちらも顔は宗主国にしか向けていないのだから、これで野田氏は宗主国から、金メダル?かも(笑)・・・。