烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

沈黙博物館

2006-01-06 00:37:29 | 本:文学
 今日訃報に接した時にはちょうど『沈黙博物館』(小川洋子著、筑摩書房刊)を読んでいるときだった。人の死と死が残していく形見という形象がテーマになっている小説で、これも何かの因縁だろう。 主人公の「僕」は、博物館の設立のためにある村に到着する。小さいころから使い慣れている顕微鏡に母の形見の『アンネの日記』が入っている鞄を携えて。「世界の縁から滑り落ちた者たちをいかに多くすくい上げるか、そしてその物たちが醸し出す不調和に対し、いかに意義深い価値を見出す」べく登場する。依頼者は風変わりな老婆とその娘であり、老婆は「ひどく小柄」で、「両手を差し出せば、胸の中にすっぽり抱き留めることができそう」な体つきであった。 月が満ち始めた次の日に「僕」は老婆の集めた形見の収蔵庫に案内される。故人の奇妙なエピソードが刻み込まれたさまざまな形見(避妊リングや犬のミイラ、剪定ばさみなどなど)がそこには眠っている。「僕」の仕事はこれらを整理することと同時に、村人が死んだ時にそのもっとも相応しい形見をどんな手を使っても手に入れることである。 ものを収集するためには強靭な精神力が必要だ。収集するためにはどんな手段も厭わないことはコレクターの基本である。世界の有名な博物館は、どれもその収蔵品の多さだけではなくそれを世界中から集めた精神力で来館者を圧倒する。この沈黙博物館でもそれが必要とされる。死者からその人の生が刻印された形見を奪い取ることで、この博物館は成長していく。 それらの形見は、一見何の変哲もない日常品であったりするから、参照できる有名な故事来歴はない。しかし死者の「生」の記憶を最もよく体現するものは、その死をもっとも身近に感じ取った人だけが分かる-分かちもてる-ちっぽけな「もの」なのである。それは外部への参照-饒舌な説明-をひたすら拒み続ける。今はすでにない-不在-ものを最高の強度で表現しつつ今ここに在るものこそが形見という資格をもつことができ、この博物館へ陳列される。 主人公の「僕」は、そうしたことができなくなった世界からこの村へ逃げてきたとも考えられる。以前彼が生活していた世界は、彼の兄がいる世界だった。そして彼の兄は、「物を所有するってことに、重きを置かないタイプの人間」であり、外見は気にしない人間である。だから母親の形見も全部手放してします。「僕」は「物に頼らず母さんの記憶だけを唯一大事にしたい、っていう兄さんのやり方に、どこか抵抗して」いて、母の荷物の中からとっさに本をつかみ出した。これが『アンネの日記』であった。 物に細かな記述を貼り付けるのではなく、物に語らせるようにすること。そういう記憶の収蔵庫を作ることがこの博物館の役目なのである。登場する沈黙の修行僧はその一つの表現である。全体を通読していくと、「僕」が博物館を作るためにやってきたその村自体が一つの大きな博物館であり、登場人物たちが物語の進行とともにひとつずつそうした陳列品になっていくことが分かる。沈黙博物館はいわば入れ子型構造になっている。 構成と描写にはやや難のあるところもあるが、奇妙なしかし深い味わいのある物語である。読後には自分が死んだ時にこの博物館に形見として何を収蔵してもらうだろうかとつい考えさせる物語である。