烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

乱歩の眩暈

2006-01-23 22:52:13 | 本:文学
 昨日浅草の凌雲閣のことを書いたときに、江戸川乱歩の『押絵と旅する男』を再読した。乱歩の怪奇小説の世界は、ことさら大仰な道具立てを設定していない、どちらかというと倦み疲れた平凡な日常の中に突然ふっと立ち上がる異様な世界である。この『押絵と旅する男』も魚津へ蜃気楼を見に行った「私」が上野行きの汽車の中で「四十歳にも六十歳にも見える」年齢不詳の男と偶然出会うことから始まる。そこで押絵の中で生きている男女を目にする。さらに男から渡された「異様な形のプリズム双眼鏡」で押絵を見ると等身大の「結い錦の色娘と、古風な洋服のしらが男とが、奇妙な生活を営んでいる」。この時「のぞいては悪いものを、私は今、魔法使いにのぞかされているのだ」という気持ちになる。
 この奇談の中で奇妙な男の兄は、浅草の凌雲閣の十二階から押絵の女に恋をして遠眼鏡で日々眺めていたのである。十二階の「高層」の風景を背景にした兄の姿を見ると、「兄のからだが宙に漂うかと見誤るばかり」で、十二階から見える空を背景として下から上がってきた風船屋の赤や青や紫の無数の風船の中に立っている兄の姿という不思議な光景が描かれている。

 高層建築が林立し、十二階という建物が全くありきたりとなってしまった現代からすると実に牧歌的にも思える描写であるが、当時ほとんど平屋か二階建ての木造建築であったことを考えると、都市から突き出た煉瓦造りの十二階の建築はそれだけで十分奇想を掻き立てるものであったのだろう。

 高層から下を見下ろすときの眩暈、遠眼鏡を覗いたときの遠近感を喪失させる違和感、望遠鏡を逆から覗いた時の倒錯感は、誰もが子供の時に感じた原感覚であろう。乱歩の小説にはこうした誰もが心の奥に持っている原体験の奇妙な感覚をうまく小説に生かしている。急速に、しかも決して後戻りすることなく都市化する近代に対する乱歩が感じた眩暈感なのだろう。彼が敢えて古風な押絵の中という世界を選んだのもうなづける。