『言語の脳科学』を読んだとき、その最後の章で奇妙な失語症のことが紹介してあった。それは、日ごと週ごとの時間経過で失語症となる言語が入れ替わるという現象だ。これは「交互対抗性失語症(alternate antagonism)」といわれる。その報告によると第一言語では流暢にしゃべることができるのに、第二言語ではうまくしゃべれることができない。しかし数日経つと逆に第一言語がうまくしゃべれなくなり、第二言語を流暢にしゃべるようになる。そしてまたしばらくすると逆になるという。言語の理解については、いずれも正常なのはいいとして、驚くのはこの二つの言語間での翻訳に非対称性があることである。その時点で流暢に話せる言語からもう一方への言語の翻訳は問題なく可能だが、その逆はできなかったという。言語の発話に障害があるならば、その言語に訳して話すときに障害が現れるはずだが、実際はその逆なのだ。
翻訳というのが二つの言語の理解と発話の両方から独立した認知機能だというのはたいへん興味があることだ。
この本の前に読んだ『声、意味ではなく』の冒頭には翻訳の理論と分析が既存の領域内で論じられていることへの違和感が述べられている。翻訳がある言語から他の言語への単なる置換ではないことが著者の次のようなことばに感じられる。
翻訳という行為自体、その実践において、果てしない<読み>の反復を不可欠なプロセスとして含意する。主体と客体をめまぐるしく入れ替えながら、ことば一つひとつに眼を凝らし、同時にその一つひとつがテクスト全体のどこに、どのようにかかわっているかを見失わないようにして、読む。その間、どう書くかという問いかけと、どう書かれているかという問いかけとが、たえず交互に発せられる。(中略)融通無碍に変幻を繰り返す主体と客体-それは、<読み>の、そして<翻訳>における<自由間接話法>のようなものだ。
翻訳という作業が言葉だけではなく、テクストを考慮しなければまともにできないということは脳科学的にも意味のあることではないだろうか。