『エコロジカルな心の哲学』(河野哲也著、勁草書房刊)を読む。
ギブソンのアフォーダンス理論を元にして志向性や自己の問題を考察していく論考で、たいへん面白い。それは心というものを身体の中の一つの過程としてとらえているからである。そしてその身体とはそれを取り巻く生態学的環境と切り離しては論じられない。
著者は志向性というものが、行為としての特徴と表象としての特徴の両面をもつもので、その概念は意図の概念と不可分であることを主張する。志向性の生産説(心的行為が対象を生み出し、その対象は心とは独立に存在しない)ではなく行為説(心的行為と対象が志向性においては不可分であること)がとるべき道であると論じる。
わたしたちの思考は、心の中だけでおこなわれているのではない。思考の対象が思考から独立に存在しえないどころか、その逆に、わたしたちの思考は、すくなくとも相当におおくの場合、客観化された(物質化された)思考の対象から独立にはたらきえない。わたしたちが思考とよんでいるものは、じつは、人工物や文明の産物との制度化されたインタラクションのことなのである。
この表象なるものは、志向性の再現的(反復的)な性格を誤って言いあらわしたにすぎない。行為が成功することによって、行為者と環境のあいだに適応的な関係が成立する。わたしたちが何かを志向するときには、成功した行為をモデルとしている。表象主義者はこの事態を、心の内側にもうひとつの世界(すなわち、世界の表象)を形成したという事態にすりかえてしまう。
結論すれば、表象主義的な志向性の概念は、ある行為が習慣化(ないし社会慣習化)された事態を、自分の内面的な世界が構築されたという事態にすり替えているのである。
このことから人が多くの場合ある対象について共通の志向性をもつということは、生物学的に規定された共通の身体的構造・機能をもつことに加えて共通した社会的習慣をもっていることが重要だということになる。こうして形成される対象の認識については、どの程度可変的であるかと問うことができるだろう。身体図式が生得的なものであり進化的な制約を負ったものであることを重視するとかなりの部分が固定的なものと解釈することもできるし、社会的習慣を重視するならば可変的な部分が大きいといえるだろう。人間は身体的制約をもちながらもさまざまなコンテキストに応じて身体図式を組み替えていく能力に非常に長けた生物であるといえる。おそらくこれは言語という無限大に可変的な意味生成システムをもったことと深く関係しているに違いない。
つづいて著者は自己というものが「徹底的に身体的な存在であり、世界に立脚したsituated存在だということ」を強調し、「世界を超えて存在する超越的(ないし形而上学的)な存在ではないと述べる。「知覚のもつパースペクティヴ性は世界の特徴ないし様相ではなく、知覚者の特徴ないし様相で」あり、わたしたちは世界からあるパースペクティヴの部分を切り出すことしかできないのである。世界は部分の総和以上のものであるわけだ。
最後の部分では自己についてのネーゲルの議論がとりあげられている。確定記述の束としてとらえられない自己についての問題である。すなわち「世界には数多くの人物が存在する。しかしわたしがそのうちのひとりであることはどうして可能なのだろうか」という疑問である。これは永井均のいう<私>であろう。一人称を含んだ言明が非人称的な真理条件が与えることができるからといって、そうした言明が一人称を用いずに済ませることができるということにはならないというネーゲルの主張が正しいことは著者も認めるが、だからといってネーゲルのいう「客観的自己」が現実に存在していることにはならないと反論する。
ネーゲルが客観的自己とよぶものは、「わたし」という一人称単数代名詞の言語的な機能と特徴を実体化したもの以外のものではない。それは、たしかに自然科学によって解明できるものではない。理由は単純で、自然科学は人間の言語を研究対象にしていないからである。しかし、それはいかなる説明も受けつけない神秘的な存在ではなく、特定の「人物」のなかにおさまっている「真の自己」でもない。
「わたし」という言葉は、対話の相手を前にして使用されるときに、そしてその都度その発話者を示すという機能をもったことばだから他の誰でもない「わたし」であるというわけである。確かにこの議論は正しいと思う。しかし人間という存在が言語を使うことにより形而上学的な自己というものを(それがいかに幻であったとしても)描かざるをえないという事実は変わらないことも同じくらい重要なことだと思う。この幻想を抱かざるを得ないというのは、言葉というものをもった人間の「病い」なのだろうか。
J.J.ギブソン『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』サイエンス社 (1986)
この本を読むと、一時的に、自分の視覚認識になんとも言えない変な変化(?)が出てきます。もしお時間があれば、ギブソン御大のこの本は面白いです。
一つの簡易な実験ができます。ハンディなビデオカメラで、動きながら家の中や、外を歩き回るのです。10分くらいで大丈夫です。それを自宅でゆっくりと見ると、まるで自分の体が動いているように感じます。
これでわかるのは、自分の眼は、環境(=外界)をみつつ、一方で、環境に対する己の相対的な位置取りを確認し、身体の動きを調整していることです。
フィギアスケーターの浅田真央は13歳から14歳にかけて一時的に深刻なジャンプ技の不調になりました。これは、このとき急激に身長の伸びてしまい、ジャンプの際、回転しながら、目で自己の回転速度やジャンプの高さをリンクと相対的に認識して空中姿勢を調整していたのに、目線が急激に変ったため、その身体データがすべて狂ったためだったようです。
また、奥行きの認識にかんして、両目の視差で認識できるように言われます。しかし、、例えば、壁の模様のザラザラ感などは、ミリ以下の変化ですから、数メートル離れて見た場合など、両目の視差など、物理的にほとんど問題になりません。それでもその立体感が認識できるのは、壁表面の光、色などの濃淡、つまり、texture(肌理)の変化によるのだ、と指摘しています。
とにかく、不思議で面白い理論です。