烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

サクラは何色ですか

2007-03-27 20:58:58 | 本:哲学

 『サクラは何色ですか』(大澤正人著、現代書館刊)には、西田幾多郎の哲学に基きながら桜を巡って著者の哲学的随想が綴られていく。
 サクラが目の前で咲いているということはどういうことか。例によって西田哲学は難解だが、私と対象というとらえ方ではなく、その対立を包んだ「場所」に咲くという現象がサクラというかたちで生起するといえばいいのだろうか。りんごが重力の作用で落下するのではなく、引き寄せられる(落ちる)という作用が重力の作用を受けた空間のゆがみという場所の中でりんごにおいて顕現するのと似ている。西田哲学では、サクラやりんごといった実体は中心ではない。あくまである作用の効果が顕現する(生成する)場所が中心にある。その根源を西田は「無」と捉えた。この無は有との対立で考えられた無ではない。端的な無である。これを表そうとすると「 」として「」の中の空虚で表さざるを得ない。分割も統合もされていない無の領野であるから、見方によっては充実した有でもある。ここに「無の自己限定」、「場所の自己限定」が起きて、有と無の対立が生成する。このあたりは、読んでいるとラカンのいう現実界への象徴界の作用と一脈通じるものがあるような気がした。

 さて、われわれはサクラを見る。サクラはわれわれを招く。その場は善意志の宴のようである。しかし、本当にそうなのか。サクラの呼び声をわたしは聞く。でもわたしは欺かれているのかもしれない。

 今年も欺くように優艶なサクラが咲き始めた。その下で浮かれ騒ぐとき、浮かれるということが私という場所にサクラの作用を受けて生成するのだ。このとき私という主体は重要なのではない。美的陶酔の描写には適した見方であるが、この観点は常に個を殺す危険も持ち合わせている。