『死と誕生 ハイデガー・九鬼周造・アーレント』(森一郎著、東京大学出版会刊)を読む。
多忙にかこつけてブログの更新間隔が思いのほかあいてしまった。どうせ読む人も少なかろうという思いがある反面、誰かが見ているという思いもありまた記録をつける。自分だけの日記だったらとうの昔にやめていたかもしれないのに。読んだものに限らず、何かしら記録を残すというのは言葉をもつことになった人間の宿痾なのかもしれない。
前に読んだのがどちらかというと気軽に読める評論だったが、今回の本は重厚であり、読書時間も少なかったため時間がかかった。妊娠のつぎは誕生そして死という連想がはたらいたわけでもないのだが、ハードカバーの本を持って回りながら少しずつ読むという日々だった。
死へ向かう存在というハイデガーの定式化に対して、誕生というもう一方の極を対置した弟子のアーレントという読みは、専門家のあいだでは議論があるところであろうが、私にとってはたいへん新鮮で、感動的ですらあった。感動というと変な感じだが、揺さぶられるような感じを確かにこの本は与えてくれる。
アーレントのいう出生性(natality)は、古代ギリシャの伝統的思考である作られたものとしての人間とは異なる思考であること、そしてそれが記憶と想起において可能になることが書かれている。『アウグスティヌスにおける愛の概念』への増補として彼女は次のフレーズを挿入する。
意識をもち想起する存在として人間を規定する決定的事実は、誕生もしくは「出生性」である。すなわち、われわれは誕生を通じてこの世界へやって来た、という事実である。欲求する存在として人間を規定する決定的事実は、死もしくは可死性であった。これは、われわれは死においてこの世界から去っていく、という事実である。死への恐れと、生の不完全性が、欲求の原動力であた。これに対し、そもそもいのちを与えられたということに対する感謝が、想起の原動力なのである。なぜなら、たとえ悲惨であろうと、いのちは大切にされるからである。
この後著者はこの節の最後にこう結論している。
ハイデガーは、彼の見立てによる被制作性本位の伝統的存在概念とは異なる、新たな存在了解の可能性を求めて、死という終りの分析から引き出された「有限性」にもとづく実存本位の存在論を構築しようとした。この世界内部的終末論は、若き日に神学を断念した者なりの「原始キリスト教における事実的生の経験」の甦生であったことだろう。だが、そのさい終わりにもっぱら定位したため、始まりを十分考慮に入れないままにとどまった。これに対してアーレントは、ハイデガーによって派生的なものと見なされいわば打ち捨てられた「被造性」というキリスト教の中心思想のなかに、始まりというテーマを発見し、それを誕生の問題として捉え直すことで、世界内存在の現象学を再試行したのである。そこに浮上した実存カテゴリーこそ、「出生性」にほかならない。
誕生して記憶という自分自身に対する「印づけ」が可能になることで始まりを志向できるようになり、それが同時に自分という存在をあらしめる。そして自分が作られて在るという意識を人間はもつということ、これは神の有無によらず事実であり根本的なことであり、ある意味で人間の宿痾なのだろう。