烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

外交と国益

2007-08-03 13:24:15 | 本:社会

 『外交と国益』(大江博著、NHKブックス)を読む。
 著者は、外務省出身で、現在外務省国際協力参事官という立場の人である。日本の外交の現場の経験者という視点で、現実的な分析を行っている。米国・中国・北朝鮮との外交関係、包括的安全保障の考え方、地球環境や対外経済援助における日本の貢献についてまとめてあり、最近までの動きを復習するのに大変役立った。
 日米安保条約については、第6章で取り扱われており、特に重要な第5条と6条の解説がされている。ここもわかりやすく解説されている。
 第5条前段では「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言」されている。
 「日本国の施政の下にある領域」という文言により米国の領域に対する攻撃とは切り離されるため、米国の領域に対する攻撃があっても日本に米国を守る義務はない(片務性)ということになる。在日米軍施設が他国から攻撃を受けた場合は、目的が米国であってもわが国の領土が攻撃を受けたことになるので、個別的自衛権の発動の要件を満たすと解釈される。
 第6条では「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」、米軍がわが国の施設・区域の使用を許されることになっている。これが第5条の片務性の代償となっている。
 ここに日米双方が互いに自分の方が損をしているのではないかという被害者意識と不満を生む元があると著者は指摘している。
 米国側の不満:(1)日本が米国を守らないのに米軍は日本を守っているという「安保タダ乗り論」からくる不満。 (2)米国が極東の平和と安全を維持しているのに、日本はその後方支援すらしていないという不満。
 日本側の不満:(1)日本を守る以外の目的(「極東の平和と安全」)という目的のために在日米軍基地を提供しているが、基地の地元は過剰な負担を強いられているという地方の不満。(2)同じく日本を守る以外の目的で基地があるため、本来自国と関係ない紛争に巻き込まれる恐れがあるという不満。

 米国側の不満(1)に対しては、日米地位協定による日本側の財政負担が行われている。不満(2)に対しては、「国際平和協力法」、「日米防衛協力のための指針」とそれに基く国内法である「周辺事態安全確保法」により対処してきた。さらにはアメリカのアフガニスタン攻撃への支援が「後方支援」という概念では無理があることから、「テロ対策特別措置法」を作ることで、「非戦闘地域」では相手国の同意を条件に外国の領域でも後方支援が可能となった(「後方支援」は日本の領域と公海上、公空上に限定されている)。
 日本の不満(1)に対しては在日米軍基地を縮小する方向で検討がなされている。不満(2)に対しては、確かにそのリスクは存在するが、著者および日本政府の見解としては、「そのようなリスクは、同盟国として当然負担すべき危険であり、米国と安全保障の関係を持たないことによるリスクを比較した場合、後者のほうが大きい」としている。
 改憲論議が今後さかんになってくると思われるが、今までの流れとしては、当然のことながら第9条があるから、次々に法律を作って”現実的に”対処してきたということになる。この流れをこれからも続けていくのか、根本の規定に変更を加えるのかということになろう。本書では「虚心坦懐に」議論することが重要であると締めくくられており、ちょっと肩透かしを食ってしまった。
 今までの法律の制定経緯を見てみると、派遣された自衛隊の武力行使(任務遂行のための武器使用の問題)が当然問題になるのは明らかである。これができないため、自衛隊は「警護」や「警備」活動は参加できない(「任務」というのもかなり曖昧なのも気になる)。これでは情けないからという議論で武器使用を認めることになれば、当然わが国が紛争に巻き込まれるリスクが格段に上がることになるだろう。現実が理想から遠ざかりつつあるとき、それでも理想は掲げつつ進むのか、理想を捨てるのか。いずれかを私たちは選択しなければならないのだが、いずれをとるにしても、”しょうがない”というような思考停止での選択だけはしたくない。過去に対する諦念は、しばしば未来の展望も蝕む。国防のトップが、示した諦念は今後の日本の決める議論に水をさすような”傍観者”の発言だからこそあれだけ怒りを巻き起こしたのだろう。著者は本書で、外交の”当事者”の立場で現実をみると述べているが、後方で紛争の標的になりうる普通の国民(そしてその子孫)も当然ながら”当事者”である。あくまでも”傍観者”ではなく”当事者”として虚心坦懐に議論することが求められている。