連休中深夜放送で、怪奇大作戦(1968年放送)と怪奇大作戦セカンドファイルが衛星放送であっていたのでビデオに録画し視聴した。5月1日から4夜連続で各2時間、合計8時間である。サイエンスホラーのカテゴリーに入る作品群であるが、旧作は30分という時間の制約の中で驚くほど濃密な怪奇の世界を作り出している。
一連の作品を通して、主役は難事件を解決していくSRI(科学捜査研究所)のメンバーたちであるが、真の主役は怪事件の犯人であり、その犯人をそこに追い詰めた状況である。当時の日本は著しい経済成長を遂げ、1968年には日本発の超構想ビルである霞ヶ関ビルが竣工したり、これまた初の心臓移植が行われるなど科学技術の進歩により日本は右肩上がりに発展すると誰もが期待し、信じていた時代である。その一方で同年にはイタイイタイ病や水俣病が公害病と認定されたり、カネミ油症事件が起きたりなど科学技術がもたらす負の側面が社会問題化してきた時期でもある。この7年後には「人類の進歩と調和」と題して大阪で万国博覧会が開催される。そうした時代背景を考慮して視聴すると興味深い。
「白い顔」(レーザー光線銃)「死神の子守唄」(スペクトルG線冷凍銃)「青い血の女」(遠隔操作によるロボット殺人)「氷の死刑台」(超低温人体保存技術)「京都買います」(物質転送装置)などの作品は、その当時としては(もちろん現代でも)想像を絶する高度な技術が犯罪に使用されるという設定であり、その使用者は(いろいろな原因で)狂った科学者、マッドサイエンティストの系譜に連なる人物たちである。
一連のドラマにおいて、基本的には技術自体は優れているが応用を誤れば悲惨な事件を生むという前提があり、実証的科学的検討を加えればどんな難事件でも解決可能であるという立場がとられている。事件のトリックは科学的に解明されるが、犯人の動機という心の闇までは分からないということを表明している作品(「かまいたち」)もある。科学技術の進歩で社会のあちらこちらにおかしなことが起こりつつあるが、基本的にはこれも科学が解決してくれるということが信じられていた時代といえる。その技術を悪用してしまう狂った科学者たちは、名誉欲の虜となっていたり、人間関係でうまくいっていないことで病んでいるのである。しかし中には、社会の構造的問題が関係していることを告発している作品もあり注目される(「人喰い蛾」での企業間競争、「死神の子守唄」での胎内被爆による白血病の発症問題、「霧の童話」での農村部の乱開発、「京都買います」での古都保存問題など)。また旧作ではまだ科学がビッグプロジェクトになる前の時代であり、周囲と隔絶された暗い実験室の中で天才科学者が新技術を生み出すということが暗黙の了解となっているのが今から見ると微笑ましい。
新作のセカンドファイルでは、旧作にあるような科学についての素朴な信仰は見られない。どちらかというと現代の科学では解明できないことがあるのだということを言いたげである。「昭和幻燈小路」におけるタイムスリップがどうして可能となったのかの解明はよくわからないし、「人喰い樹」で感染した人が音楽で癒されてしまうなど理屈に無理がありすぎるような設定もある。このあたりは38年も経っているのだからもう少し納得させるような工夫をしてもらいたいという不満も残る。では社会問題に鋭く切り込んでいるかというとそうもいえない。「人喰い樹」では、花粉が変異して病原体となる恐怖を描いているが、未知の感染症のアウトブレイクというならば、高病原性鳥インフルエンザによる大規模流行や新種ウイルスによるテロなど、花粉の変異による病原性獲得といったことよりずっと差し迫った恐怖に私たちは曝されているのであり、種明かしをされると肩透かしを食ったようで拍子抜けするのである。新作は、一見科学を駆使しているように見えながらあまりにも怪談に傾斜しすぎている。社会の暗部から生まれる怪奇を科学が暴くという旧作の延長線上でドラマを作成するならば、同じ視点をもっと取り入れたドラマ作りをして欲しかったと思う。
一連の作品を通して、主役は難事件を解決していくSRI(科学捜査研究所)のメンバーたちであるが、真の主役は怪事件の犯人であり、その犯人をそこに追い詰めた状況である。当時の日本は著しい経済成長を遂げ、1968年には日本発の超構想ビルである霞ヶ関ビルが竣工したり、これまた初の心臓移植が行われるなど科学技術の進歩により日本は右肩上がりに発展すると誰もが期待し、信じていた時代である。その一方で同年にはイタイイタイ病や水俣病が公害病と認定されたり、カネミ油症事件が起きたりなど科学技術がもたらす負の側面が社会問題化してきた時期でもある。この7年後には「人類の進歩と調和」と題して大阪で万国博覧会が開催される。そうした時代背景を考慮して視聴すると興味深い。
「白い顔」(レーザー光線銃)「死神の子守唄」(スペクトルG線冷凍銃)「青い血の女」(遠隔操作によるロボット殺人)「氷の死刑台」(超低温人体保存技術)「京都買います」(物質転送装置)などの作品は、その当時としては(もちろん現代でも)想像を絶する高度な技術が犯罪に使用されるという設定であり、その使用者は(いろいろな原因で)狂った科学者、マッドサイエンティストの系譜に連なる人物たちである。
一連のドラマにおいて、基本的には技術自体は優れているが応用を誤れば悲惨な事件を生むという前提があり、実証的科学的検討を加えればどんな難事件でも解決可能であるという立場がとられている。事件のトリックは科学的に解明されるが、犯人の動機という心の闇までは分からないということを表明している作品(「かまいたち」)もある。科学技術の進歩で社会のあちらこちらにおかしなことが起こりつつあるが、基本的にはこれも科学が解決してくれるということが信じられていた時代といえる。その技術を悪用してしまう狂った科学者たちは、名誉欲の虜となっていたり、人間関係でうまくいっていないことで病んでいるのである。しかし中には、社会の構造的問題が関係していることを告発している作品もあり注目される(「人喰い蛾」での企業間競争、「死神の子守唄」での胎内被爆による白血病の発症問題、「霧の童話」での農村部の乱開発、「京都買います」での古都保存問題など)。また旧作ではまだ科学がビッグプロジェクトになる前の時代であり、周囲と隔絶された暗い実験室の中で天才科学者が新技術を生み出すということが暗黙の了解となっているのが今から見ると微笑ましい。
新作のセカンドファイルでは、旧作にあるような科学についての素朴な信仰は見られない。どちらかというと現代の科学では解明できないことがあるのだということを言いたげである。「昭和幻燈小路」におけるタイムスリップがどうして可能となったのかの解明はよくわからないし、「人喰い樹」で感染した人が音楽で癒されてしまうなど理屈に無理がありすぎるような設定もある。このあたりは38年も経っているのだからもう少し納得させるような工夫をしてもらいたいという不満も残る。では社会問題に鋭く切り込んでいるかというとそうもいえない。「人喰い樹」では、花粉が変異して病原体となる恐怖を描いているが、未知の感染症のアウトブレイクというならば、高病原性鳥インフルエンザによる大規模流行や新種ウイルスによるテロなど、花粉の変異による病原性獲得といったことよりずっと差し迫った恐怖に私たちは曝されているのであり、種明かしをされると肩透かしを食ったようで拍子抜けするのである。新作は、一見科学を駆使しているように見えながらあまりにも怪談に傾斜しすぎている。社会の暗部から生まれる怪奇を科学が暴くという旧作の延長線上でドラマを作成するならば、同じ視点をもっと取り入れたドラマ作りをして欲しかったと思う。