烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

怪奇大作戦にみる科学

2007-05-06 15:01:19 | 映画のこと
 連休中深夜放送で、怪奇大作戦(1968年放送)と怪奇大作戦セカンドファイルが衛星放送であっていたのでビデオに録画し視聴した。5月1日から4夜連続で各2時間、合計8時間である。サイエンスホラーのカテゴリーに入る作品群であるが、旧作は30分という時間の制約の中で驚くほど濃密な怪奇の世界を作り出している。
 一連の作品を通して、主役は難事件を解決していくSRI(科学捜査研究所)のメンバーたちであるが、真の主役は怪事件の犯人であり、その犯人をそこに追い詰めた状況である。当時の日本は著しい経済成長を遂げ、1968年には日本発の超構想ビルである霞ヶ関ビルが竣工したり、これまた初の心臓移植が行われるなど科学技術の進歩により日本は右肩上がりに発展すると誰もが期待し、信じていた時代である。その一方で同年にはイタイイタイ病や水俣病が公害病と認定されたり、カネミ油症事件が起きたりなど科学技術がもたらす負の側面が社会問題化してきた時期でもある。この7年後には「人類の進歩と調和」と題して大阪で万国博覧会が開催される。そうした時代背景を考慮して視聴すると興味深い。
 「白い顔」(レーザー光線銃)「死神の子守唄」(スペクトルG線冷凍銃)「青い血の女」(遠隔操作によるロボット殺人)「氷の死刑台」(超低温人体保存技術)「京都買います」(物質転送装置)などの作品は、その当時としては(もちろん現代でも)想像を絶する高度な技術が犯罪に使用されるという設定であり、その使用者は(いろいろな原因で)狂った科学者、マッドサイエンティストの系譜に連なる人物たちである。
 一連のドラマにおいて、基本的には技術自体は優れているが応用を誤れば悲惨な事件を生むという前提があり、実証的科学的検討を加えればどんな難事件でも解決可能であるという立場がとられている。事件のトリックは科学的に解明されるが、犯人の動機という心の闇までは分からないということを表明している作品(「かまいたち」)もある。科学技術の進歩で社会のあちらこちらにおかしなことが起こりつつあるが、基本的にはこれも科学が解決してくれるということが信じられていた時代といえる。その技術を悪用してしまう狂った科学者たちは、名誉欲の虜となっていたり、人間関係でうまくいっていないことで病んでいるのである。しかし中には、社会の構造的問題が関係していることを告発している作品もあり注目される(「人喰い蛾」での企業間競争、「死神の子守唄」での胎内被爆による白血病の発症問題、「霧の童話」での農村部の乱開発、「京都買います」での古都保存問題など)。また旧作ではまだ科学がビッグプロジェクトになる前の時代であり、周囲と隔絶された暗い実験室の中で天才科学者が新技術を生み出すということが暗黙の了解となっているのが今から見ると微笑ましい。
 新作のセカンドファイルでは、旧作にあるような科学についての素朴な信仰は見られない。どちらかというと現代の科学では解明できないことがあるのだということを言いたげである。「昭和幻燈小路」におけるタイムスリップがどうして可能となったのかの解明はよくわからないし、「人喰い樹」で感染した人が音楽で癒されてしまうなど理屈に無理がありすぎるような設定もある。このあたりは38年も経っているのだからもう少し納得させるような工夫をしてもらいたいという不満も残る。では社会問題に鋭く切り込んでいるかというとそうもいえない。「人喰い樹」では、花粉が変異して病原体となる恐怖を描いているが、未知の感染症のアウトブレイクというならば、高病原性鳥インフルエンザによる大規模流行や新種ウイルスによるテロなど、花粉の変異による病原性獲得といったことよりずっと差し迫った恐怖に私たちは曝されているのであり、種明かしをされると肩透かしを食ったようで拍子抜けするのである。新作は、一見科学を駆使しているように見えながらあまりにも怪談に傾斜しすぎている。社会の暗部から生まれる怪奇を科学が暴くという旧作の延長線上でドラマを作成するならば、同じ視点をもっと取り入れたドラマ作りをして欲しかったと思う。

リベラル優生主義と正義

2007-05-06 07:56:05 | 本:哲学
 『リベラル優生主義と正義』(桜井徹著、ナカニシヤ出版刊)を読む。
 分子遺伝学的手法により生まれてくる子供の遺伝子を操作することは倫理的に許されることか否かを論じた書物である。題名にあるように、著者は親による子どもに対する遺伝子改変を「生殖の自由」の延長線上に位置づけて、これを許容する立場である。当然国家による価値観の強制による遺伝子改変については否定的である。「優生主義」という挑発的な題名がつけられているが、著者は過去の忌まわしい優生学の歴史は認めながらも、ただ優生学、優生主義という言葉だけから否定的に論じるのは生産的でないとする。
 リベラル優生主義は、(1)「生殖の自由」のラディカルな拡張、(2)治療と改良との道徳的等価性、(3)遺伝子への介入と環境への介入との道徳的等価性を主張する。
 (1)の論点は、遺伝子改変を決定するのが国家や社会ではなくあくまで個人(親)であるということを主張する。生殖活動を行うか否か、誰と行うか、いつ行うか、そして出産するか否かを決定する権利を個人が有するのと同様に、生まれてくる子供の遺伝子を操作するか否かについても権利を持っていると主張する。親が子どもの遺伝子を操作することが許されるか否かについては、世代間での他者危害の原則が適用され、その規準が論じられるが、問題なのは、「自立した」個人による判断が、その個人が属する社会通念がもつ価値観から自由に振舞えるだろうかという点だろう。これは遺伝子操作を決断したことにより子どもに負わされる結果の責任をどこまで親と社会が負担するのかという問題にもなる。リベラル優生主義者は、肉体や知性の一部の改変は認められうるという立場をとるが、仮に100%安全な技術であっても、その結果を個人の判断だからということで済ませられるであろうか。
 (2)治療か改良かということについては、「人間の本性」がある(客観的に決定できる)とする立場からは、それを変化させる可能性のある遺伝子改良は禁止すべきと主張する。これに対してリベラル優生主義は、その厳格な区別はそもそも不可能であるとする。老化に対する遺伝子治療が可能だとすれば、それは治療よりも改良といったほうが適切だろう。人間の本性という議論になると、これは生物学的には決定できない、形而上学的な論争になる。
 (3)旧来の優生学は遺伝的要素の役割を極端に重視していたが、現在の遺伝学が教えるところによれば、個人の特性は、環境と遺伝子の複雑な相互作用によってもたらされるものであり、そのいずれも重要である。この点からリベラル優生主義は、遺伝子操作を環境の整備により個人の発達を促そうという努力と等価に評価すべしと主張する。どちらか一方の方法の方がより簡単で安全ならそちらを選ぶほうが合理的というわけである。これは論理的には一理あるが、遺伝子操作という技術を適用される個人は、自ずと限られるだろうから、社会的正義という点から環境操作に比べると問題が生じる可能性がある。
 この点については、その社会がどのような枠組みを維持するのかということにも関係する。社会全体にとって利益を最大化するため生産性の高いシステムを維持することと、そうしたシステムに加われない欠陥を負った人たちを排除せずに包摂していくことのバランスが社会正義上重要である。
 個人的には、もし遺伝子操作をすることで重度の障害をもった子どもが生まれることを回避できるならば、それを選択する親は許されると思う。