烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

スピノザ

2006-08-12 14:54:04 | 本:哲学

『スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』(上野修著、NHK出版刊)を読む。スピノザの『神学・政治論』を取り上げ、スピノザの「神」とは何かが解読される。
 本書ではまず聖書の解釈をめぐる二つの対立が対比的に提示される。タイプA:正統派進学者の超自然的解釈。理性を超越した視点からでないと聖書は解読できないとする。ユダヤ教ラビのアルファアカールが代表者。タイプB;合理的に解釈できるように聖書を比喩として解釈する。急進デカルト主義者に典型的な合理的解釈。ユダヤ哲学者マイモニデスが代表者。
 これに対してスピノザは、「聖書は哲学的な事柄を教えているのでなくてただ敬虔だけを教えているのであり、また聖書の全内容は民衆の把握力、民衆の先入的意見に順応させられている」のだと説く。タイプAは先入見のために精神を盲目にしている。タイプBは預言者の考えてもいない解釈をほどこし聖書を曲解している。聖書に「真理」を読み取ってはいけない。「正しい意味を事柄の真理と混同しないためには、その意味は言語の使用可のみ、あるいは聖書以外の何ものも基礎としない推論からのみ探求すべきである」と説く。ある発話が、神の言葉であると発話者と聞き手に確信されるように一回的かつ決定的になされるための条件として、1.預言者の生き生きとしたイマジネーション、2.預言者に神から与えられる徴、3.正しいこと・よいことのみに向けられた預言者の心の三条件をスピノザはあげる。自ら立証可能で確実な根拠から導き出される真理ではない。無根拠でありながら確信せざるをえない正しさが記されているのが聖書の記述なのである。どうして正しいのかは分からないけれども、正しいと信じて受け容れる
(amplecti)という身振りこそが重要なのである。「正義と愛をなせ」という命令に敬虔に服従するためには、最高権力がそれを法として宣言して遵守させる必要がある。これが敬虔の文「法」である。この最高権力は「それが欲することを人々の大部分が信じ・好ましく思い・嫌悪を感じるように、さまざまな仕方で効果を生み出すことができる」。思想言論の自由は敬虔と共和国の平和を損なうことなしに許容されうるし、この自由が除去されれば共和国の平和と敬虔も同時に除去されざるをえないことをスピノザは述べる。
 宗教のことに限らず、一般に「信じる」という行為の不思議さを考えさせられる一冊である。