烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

言語能力という生物学的本能

2006-03-27 23:24:12 | 本:自然科学

 言語をもち、それゆえ言語に基づく文化を有する存在は人間だけである。ここが決定的に動物と違うところとされるから、人間の起源を考えることは言語の起源を考えることに直結する。言語が出現するためにはまずそれが通用する社会がなければならないが、そもそも社会があるためには言語でお互いが意思疎通できなければならない。どちらが起源なのかははっきりしないから、ルソーは『言語起源論』で言語は神から与えられたと暗示している。これではまったく解決にはなっていない。解決がつかない深遠な問題があると決まって神様を持ち出すばかりか、それをもって神の存在理由にすることがあるが思考停止に陥るようなこうした神の概念はいただけない。
 『言語を生みだす本能』(スティーブン・ピンカー著、椋田直子訳、NHKブックス)を読むと、言語能力が人間の本能であることが主張されている。この説の淵源はダーウィンの『人間の由来』である。すなわち言葉を操ることは、鳥が巣作りをしたり、ビーバーがダムを造るのと同じ生物学的本能であるというのだ。人間が普遍的な文法をもつことを主張したチョムスキーに、ダーウィンの自然選択を接続させる形で、ピンカーは言語の生物学的基盤を解き明かしていく。
 この本では言語が人間に普遍的であるということの基本に、心的文法があることを聴覚障害者やクレオールのことばを例にとりながら説いている。同時に言語的思考というものがすべてではなく、心的イメージに基づく思考というものも存在していることを言葉をまだもたない幼児の研究成果から主張している。
 特に重要と思われるのは、こうした基礎研究から「言語が思考を規定する」という社会学の説を否定していることだ。特に俎上に上げられているのがサピアとウォーフの言語決定論で、民族によってたとえば色彩の語彙が違うことから主張されるところの言語決定論がいかにいいかんげんな代物であるかが示されており、旧来の認識は破棄されるべきであることを教えられた。さらに赤ん坊は言葉を覚える前に簡単な計算をしていることや心的イメージによる思考の存在を示す実験結果を紹介している。思考と言語ははっきり別物であるというのが最近の認知心理学の成果だ。
 このことが事実だとすると、言葉が人間の認識を決定するという言説はかなり怪しい(すなわちかなり割り引いてきいておくべき)説だということになるし、言語によって初めて欠如が認識できるようになるとするラカンの説も再検討する必要がある。ラカンは人間が言語をもつことで初めて象徴界に参入し、欲望をもつことができるようになるとしているからである。言語により認識できるようになる欲望以前にある欲望の方がより根本的なものであるならば、精神分析的言説が人間の根源を説明するというのもいいすぎだろう。