烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

見世物としての動物

2006-03-22 23:56:57 | 本:歴史

 珍奇な事物はなぜか妙に有難がられる。まして宗教的な意義(と堅苦しく書いたが平たく言えばご利益)があるとなれば、その価値はさらに高まる。
 1972年に中国から贈られたジャイアントパンダのカンカンとランランが上野動物園にやって来て、公開されたときには日本中から人が押し寄せた。動物学に熱狂的な興味をいだいている人が日本にそれほどいるわけはないので、ほとんどの人は何か珍奇な生き物が来るということで上野動物園に行ったに違いない。一応テレビでのんきに笹を喰らっている姿を見ることはできたが、それでも上京して自分の眼でパンダを「拝んだ」のである。
 珍奇なものは、「珍」すなわち遭遇頻度が非常に低く、かつ「奇」すなわち平均的概念から有意に外れる(2SD以上か)であることによって、「在り難い」ものとされる。「在り難き」ことは「ありがたい」もので、ご利益につながる。こうして珍奇なものを見ることができたときに、「いいものを拝ませてもらった」と賛嘆し、我々はいつの間にか見る行為において対象に跪拝してしまっている。聖性がどうして生まれるのかは難しい問題だが、珍奇な対象にはいわゆるアウラ*があり、そのアウラの及ぶ範囲に入ること、すなわち聖性の領域に自ら侵入すること別言すれば日常の境界を敢えて侵犯することが非常に大事な要素なのだろう。だからテレビで仏像をたとえ何回拝んだとしても信心深いとは言われない。まさしくメディアという「媒体」を介さない直接性が重要なのだ。
 『江戸の見世物』(川添裕著、岩波新書)を読むと、冒頭のパンダフィーバーが江戸時代にも珍しくない現象であったことを教えてくれる。当時は鎖国をしていたから海外からの動物の移入も長崎が門戸となっていた。「舶来」動物種として、当時ゾウ、ヒクイドリ、ラクダ、ヒョウ、トラなどが記録されている。幕末にインドゾウが来たときには、歌川芳豊が見世物絵を描き、その説明文を仮名垣魯文が書いた。その文句には「一度此霊獣を見る者は七難を即滅し七福を生ず」と謳われており、ごく短時間でもこの聖性に触れることで災いと福とする効用があることを説いている。感染症の多い時代でもあり、疱瘡や麻疹に対する厄除けを宣伝されているものが多い。中にはラクダのように夫婦円満のご利益が強調された動物もいた。滅多にお目にかかれないこうした動物に限らず、例えば普通の動物に頻度は低いが発生するアルビノ(先天性白皮症)も「聖性」を生む。白雉や白虎などとして珍重される。
 パンダ来日のときに、巷でどんなご利益が噂されたのかは知らないが珍奇な動物には昔から多かれ少なかれ常に宗教的眼差しが注がれていたのである。珍奇なることにより聖性が生まれるとすれば、環境破壊により今日図らずも絶滅の危機にたたされている世界の希少動物においても同様ではないだろうか。人為的に珍奇な種となってしまったことにより、保護を唱える人々の心の深層には(宗教的罪という意味も含めて)少なからぬ宗教的心性が流れているのではないだろうか。


*なぜアウラがあるのかと考えると、珍奇だからという循環論法に陥ってしまう。