Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

彼女の思い出

2013-05-21 23:18:35 | 日々のつぶやき

「電話の声も、もっどって来たね。あの時は声が違ってたもんね。」と、ユキちゃんに言われる。

腰はずれているだけでは無く、ねじれに近かった。隣町の整体に通い、自分でもストッレチをする事で大分改善された。

反対に徐々に体調がよくなるにつれて、彼女の事が思い出され、寂しさを感じる。

連休や週末は大きな声で私の名を呼びながらやって来ていた。

中学の2年間同じクラスになっただけであったが、それまで小学校の校区も違うこともあり特別に親しい訳でもなかった。彼女が短大を出て、地方都市に帰ってきてから、同じ街に住む事になってからだった。

初めて、私の下宿に泊まりにやって来た時、部屋の前で、

「階段から、誰か男の人が覗いている!」と、言って騒いだ。私達の階はなぜか廊下の明かりを普段つけていなかった。部屋の窓から漏れる明かりと、非常灯だけでも歩くには不自由さが無かったからだと思うが。

「誰かの彼氏かもしれん、騒がんの。」と、たしなめたものの、振り返るとその人影は階段のドアから覗いたり、顔を隠したりして不信な気がした。その10日ほど前に上の階で窃盗事件があったばかりだった。

建物の前に側溝があり、山水が流れて来て丁度部屋の前当りが段差で深くなっていてその音が四六時中聞こえているが、もう慣れっこに私はなっていて何も感じなかったが、彼女は翌朝

「川のせせらぎが聞こえて何か温泉旅館へ行ったみたい。」と言って、彼女は喜んだ。

そんな感想は初めてで大笑いしたが、2,3日後、電話が掛かった後、1階の子の部屋に1時間近く引っかかってしまい、ドアの鍵を掛けていなかった。

部屋に戻り、銭湯の準備をしようと下着を出そうとしたら、そっくり引き出しが空っぽで、下着泥棒に入られていた。気持ちも悪いが、大損害であるが、AAサイズのブラなんぞ取ってもがっかりしたのではと下宿の連中は言って笑った。

卒業してから、同級生達が子育てに追われている頃、よく二人で遊び、互いの友達の結婚式にこじつけたりして行き当たりばったりの旅行をした。

広島から松江まで出て、どっちへ行こうかと話し合ったとき、

「出雲の神さんなんか当てにならん、ならん。」と言って、反対方向へ向かった。美保関へ行っても、神社には行かず、そのうち台風に追われ、鳥取砂丘に行けば、夜中の台風で風紋は消え、ただのだだっ広い砂山だった。ただ、山陰海岸の民宿で海の幸を沢山食べた事しか覚えていない。

その後、早生まれの彼女が30歳を迎える年末、

「あの時、やっぱり行かんといけなんだんよ。出雲大社へ行こうや。」と、電話をして来た。

「年末は忙しく都合がつかないから旧正月に行こうや。」

「待てん!」と言って、振り切って彼女は出雲大社へお参りに行き、私は5歳上の友人と旧正月にお参りしたが、結婚したのは5歳上の友人だけで、それも50歳過ぎて余り評判の良くないバツ一の同級生と恋愛結婚した。

「あの人大丈夫?」

「今はまじめになっとる!」と、恋する乙女同然の彼女をひどく怒らせてしまい、結婚式のお呼びがなかった。旦那さんとはじっこんにはなりたくないのでそれはそれでよかったと思う。

話はそれたが、帰省すると私は彼女に家に遊びに行き、家族同然に夏は海へ行き、クリスマス会、お祭りとまだ小さかった姪御さん達と遊び、何も無くても、二人でぶらぶらとドライブをした。

城島のジャズコンサートにも通ったが、ある年、薄暗くなった頃霧雨が降って肌寒きなり、好みの音楽でもなく、疲れてきたのでホテルでジンギスカンを食べ帰ろうとすると、終了時までバスは出ない。

タクシーに乗るほどの所持金も無いので、意を決してヒッチハイクを無謀にも行うことにした。

真っ暗な人気の無い国道で車のライトが見えると、手を振って飛び出した。

5分もしないうちに一台の車が停まり、乗せてくれた。

「バタフライの選手ですか?」と、二人の男性が乗っていて ライトにうかぶ大柄な彼女のシルエットから冗談交じりに聞いてきた。

ラッキーな事に一般の車ではなく地元の放送局の車だったので、一変に不安は消し飛んだ。

親切な事に、別府の浜辺で桑名正博のコンサートへ連れて行ってくれたが、その当時流行っていたセクシャルバイオッレットしか知らない私達は興味もないので車のワイパーにお礼の走り書きを挟んでその場を出て温泉に浸かった後、夜中のフェリーで四国へ戻った。結局、その人達の顔は暗がり出あい、暗がりで逃げ出したので分からず終いだった。

東北を行き当たりばったりで旅をしている時は停まったペンションの人に翌日の宿を紹介してもらったりし、会津の町を歩いていると、ガイドブックに四辻はあるのに実際は敵が攻めてきた場合に備えてづらしてあるので、一つ間違えるともう目的地からはずれてしまい、二人ともイラつき途中で駅の出発時間まで別行動になったが、20分もしないうちに同じ喫茶店で会った。

ある時叔母が、某メーカーのバーゲンの入場券をもらった事から、彼女と妹と大阪へ買い物に出かけ、半日掛かりで買い物をした夜、梅田で飛び降り自殺の現場に出くわした事があった。

丁度、大阪にいる友人と3人で食事をしてスケルトンのエレベーターを出ると、私達が居たビルの屋上から人が落ちてきた。タクシーの上に落ちてバウンドして落下したので、幸い姿を見なかったが、とても驚いた。こうやって思い出すときりが無い...。

占い師のHに鑑定を頼むと、彼女には裕福な男性との縁がある事を言われた、唯一つそのためには半年以内にある方向へ引っ越す事だった。

始めは会社の同僚と一緒に探していたが、結局面倒になり引っ越さなかった。

あの時、引っ越していたら又、違う展開が始まっていただろうと思ったが、お姉さんの話では丁度占いで言われた時期にそんなご縁があったと言うが、これも彼女の選んだ道なので仕方無い。

ノワタリさんにも言われたが、

「私も彼女も互いに生き方が不器用で、涙が出ますね。」

「そうですね。もっと楽な生き方もあったでしょうね。彼女もあんなにお稽古に入れ込まなかったら...」と私が言えば、

「私の生き方よ!」彼女に怒られた。

「でも、そうやって私のことを思い出して話して欲しい」と言う。その言葉を聞いた時、二人で

「涙が出ますね。」と互いに涙ぐんだ。

「彼女の事をブログに書こうとして、頭の中で整理してたら、日曜日のお昼から、ビールを3本も飲んでしまったわ。」

「それも供養ですって。あなたと一緒に彼女も飲んでるんですよ。」と言われた。

たぶん、一人で部屋で飲む度に彼女を思い出すだろう。

彼女は亡くなったが、私は生きている。

岡本かの子の短歌であるが、

「年々に我が悲しみは深くして

 いよよ華やぐいのちなりけり」

とある。本当にそんな気持ちである。お迎えが来るまで彼女の分も精いっぱい生きる事が私の務めであろう。

 

 

 

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