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Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

刃物

2013-01-26 15:02:29 | 霊現象

海で亡くなられた方々にサンドウィッチをあげなければならないと知らされたが、翌日は朝時間がなくできなかった。

するとは、「速くしろ」と言われ一層お尻を叩かれるように喉はますますいがらっぽく、膝は痛く、夜中に何度も目が覚める始末だった。

木曜の朝、「こりゃたまらん」という事で、せっせと作り、白い小菊を買って近くの海へ向かった。

通学の子供の姿は無かったものの、人目につかぬよう道路から少し沖側に行き、投げ込んだ。

細かく刻んだ卵の白身がパラパラと海中へ落ちていったが、ほとんどはプカプカと浮いて湾の奥へゆっくり流れていった。

祝詞、般若心経をあげ、ご真言を唱えていると、15㎝位の小魚が集まってきて海中に漂っている卵をパクパク口を開けて食べる姿が見えた。たぶんこうやって後のパンも魚の口に入っていくのだろう。

それは亡くなった方達の代理の姿を見せたのであろうと思う。

が、しかし 喉のいがらっぽさは無くなったものの、左半身の不調は幾分軽くなっても消えない。

接骨院に通っても、「肘はどこかにぶつけたものか腱鞘炎の一種」と言われ、足の長さは揃っていてずれていないのに、痛だらしい。

目の下から頬にかけてののこわばり、首、胸、腰、肘、膝と右に比べ重かったり痛みが出る。

何のことか気になり、ノワタリさんに遠隔をして頂いた。

すると、何が憑いた訳ではなく過去世の物が出ていると言われた。

よほど過去世ではいつも戦場で暴れたらしいが、分かることは敗軍の方であり、斬首される事ばかりだったらしい。矢傷、刀傷の類で、たぶん傷だらけのボロボロになって亡くなった事が多いみたいだが、鉄砲傷は無いと思う。鉄砲が普及する時代よりも古いのであろう。

子供の頃から、怪我は多い。打ち身捻挫は数多く、骨折、ヒビ、裂傷の後だらけで今回も、昔のむち打ちが出て来たのかとも思っていた。

映画やテレビで昔の戦場シーン、チャンバラなどがあると、ヒュン、ヒュンと矢の飛ぶ音が怖く耳をふさぎ、しっかりきつく目を閉じた。特に、日本刀もだが、中国の青龍刀など背筋が凍る。それで神社に武将が奉納した刀剣類を展示した宝物殿には行かない。

家族は私を臆病な子供と言って笑っていたが、刃物は鋏を含めてすべて大嫌いで、自分が持つのは怖くないが、母が包丁を持ってこちらにを向けるだけで背筋がぞっとする。

同じように自分がけがをして血が流れていくのは何ともないが、小さな擦り傷であっても他人の血を見るともうどうしようもないくらいである。

西洋の戦のシーンはそれほど恐怖を感じないので何もなかったのだろう。

しかし、いくつか見せられたり、教えて頂いた過去はどちらかと言えば、悲惨なもので戦で亡くなった以外は騙されて鉄格子の中で亡くなったり、毒をあおぎ自殺したり、溺死したりとかで、これを今世に出てくるとなるとちょっとつらい。まともに一生を終えた生もあると思うが前世の記憶にはあまり残らずこのようなものを見せられるのであろうと思う。

一時の間、これは自分の浄化作用の一つであるらしいから、続くそうである。


サンドウィッチ???

2013-01-22 21:53:04 | 霊現象

先日「寝相」で書いた憑けた物は不明のままだったが、昨晩それがなんだか分かった。

1月の6日朝早く、天之御中主命様が祀られている大本神社と本殿だけになっている天照大神様の祀られている神社と先祖の造った神社へお参りした。

 

以前は前を通るのも怖かった本殿だけの神社もノワタリさんが清められてからはずっと良くなり、今回は周囲の木も伐採されて明るくなりお供えもあり、何処も気持ちが良かった。

しかし、昼食兼用でバターロールでサンドウィッチをこしらえ、大口を開けて食べようとした途端、いきなりむせて激しく咳き込んだ。 

それ以来、えへん虫は居座り喉がいがらっぽく、のど飴持参で歩いている。

何処でぶつけたのか分からないが左の肘と膝が痛く、近所の接骨院にも通っていた。

年を取ると昔の古傷が出るというので2度の鞭打ちで何時も左がネックだったのでそれかもと思っていた。

先日、スカイツリー近くでノワタリさんがむせって咳き込んだ事を思い出し、咳き込んだ瞬間の事を話すと、「食べるのは、あなたじゃなかったの。」と言われる。「ええ?」

「海で亡くなった方たち。」と軽く言われる。その途端、電流のように背中に寒気が走った。

「え、又ですか?私海辺に行ってないのに」

「行かなくても、分かってくれるから 来たんですよ。」と、言われる。

「でも、私去年の秋から何度も施餓鬼供養をしてますよ。今度はサンドウィッチですか?じゃあ、パン屋さんで買ってきましょうかね。」

「いいえ、あなたの手作りですって。」

「ええ?なんで私の手作りなの、パン屋さんの方が美味しいのに~」

「最後って言ってますよ。変わるんでしょうね。」と、言われた。

そういう訳で、今日バターロールなどの材料と御神酒を買ってきた。

しかし、何度も海に施餓鬼供養をしているが、南海トラフの地震と津波が言われているが、それに関係あるのかもと思う。直線距離にすると家から海は50メートルも離れておらず、おまけに海抜2メートル弱の我が家は一溜りも無い。

先日NHKの地震の番組を見てから、余りにも広範囲なので15日から1ヶ月しないと救援は来ないかもしれないという不安は募り、今まで用意したものの上に水、シリアルとシュラフを買った。

予測では私の住んでいる町は最大11メートルの津波といわれているので流されてしまい無駄苦労かもしれないが、持病のある高齢者と住んでいるので用意してしまった。

 

 

 


鳥なのかな?

2012-09-17 10:19:01 | 霊現象

先日、一緒に白鳥神社へ行った友人に会うことになり、慌てて写真を印刷してして渡した所、翌日興奮した声で電話が掛かった。

あの時 デジカメで撮ろうとしたら、バッテリー切れで使い物にならず、で撮った。しかし、機種を替えたばかりで余りよく分からず、おまけにちょっと度のキツイコンタクトを入れていた為、手元は見えず、写ったかどうかも分からないままだった。

彼女は目を閉じて集中すると、映像が浮かび上がる。

その時も、神社の中で拝殿でご挨拶していると、

「う~ん、白い鳥が後、後ろから大きな光が…、あ、もう見えない。」と言っていた。

人が来たり、物音がしたりして集中できなくなると、そこでもう終わってしまう。

「ね~、これって鳥じゃない?私の腕が何か鷹匠みたいで荷物を持っているのに不自然だよね。あの時、見えてきた鳥みたいなんだけど。」と、言う。

海のお清めの後、境内を歩いていると古事記の中のエピソードが描かれた絵が幾つも奉納してあった。その時、神武天皇とヤタガラスの描かれた物があった。

「あれとよく似ているけど、鳥は白だったわ。」と、彼女が言っていた。

 

この御神木の前で写した物だが、

顔を白く塗りつぶしたので見えづらいかもしれないが、木に当てた手の反対側の腕に水色に光る鳥のようなものが写っている。

実際の海の色、

お清めしてお花と榊を奉納した海、彼女は私が海に向かって神事をしている時、

「瑠璃色の海が見える…、綺麗な瑠璃色。」と言っていたので、この写真を見た時に私も驚いたが、彼女はとても喜び、

「あの時の色と一緒だわ。」と、興奮した。

空は薄曇りであったので反射ではないと思っている。

 


ヒケタ?

2012-09-07 02:50:03 | 霊現象

 日曜の深夜 後10分ぐらいで日付けが替わる頃、叔父は亡くなったという知らせを受けた。遠くに住んでいる叔母たちにすぐ連絡をとり、母と二人病院まで歩いた。

叔父と対面したが、口に管をくわえていたと最後の姿と大分変わり、穏やかな表情になっていた。葬儀屋さんの車で出て行くのを見送り、深夜の人気の無い道をとぼとぼと歩き帰宅すると1時半になっていた。

母は待合室にいる間従姉妹に後の事を細かく指示していた。

いくら職業と言えども、看護婦さん達は手際よく、主治医は私達と一緒に見送ってくれた。こんな時はその心使いがとても有り難い。

深夜に外を歩いたのが障り、気管支の悪い母は風邪を引いてしまい、私が通夜も葬式も父と参列するようになってしまった。

後で聞いてみれば、叔父は腎臓も透析一歩手前の状態だったと言う。

叔母達は丁度3週間で叔母に続いて叔父が亡くなった為、これで打ち止めにして欲しいと口々に言っていたが、年齢は関係なく気丈な人またはマイペースの人はピンピンしていて、没個性というか影が薄いと感じた叔父や叔母が逝ってしまったような気がする。

叔母の葬儀と違い今度は叔母達の外従兄弟等も参列して賑やかに叔父を見送った。

しかし、今回身近であったので人の人生ってあっけないものと実感したと同時に、それならば、人にどう思われようと自分の思うとおりに生きたいと思った。

慌ただしく3日間が過ぎ、予定通り高知まで出かけた事もあり、その疲れからか、昨晩は9時前から寝てしまった。

今朝、5時に目が覚めたがそのまま横になっていると、

「ヒケタ、ヒケタに行かなければならない!」と言っている。その後、「卵!」

「え?卵?」なぜか6月15日のゆで卵しか目の前に無い!これはダメだわと思っていると、

次にトーメイのパックに10個入った卵が現れた。 ああ、それがいるのね…と納得した所で目が覚めた。

う~ん、今のは何だ?ヒケタと言ったら、多分香川の引田?行った事はないが、先日白鳥町へ行った時に名前を目にしたくらいである。

卵と言えば、龍神様?海のお清めかしらと思った。以前、霧島の大浪池に行った時、何時もの3点セットの他、榊と卵のパックを持っていって供えた事を思い出した。

大きな白い巳様が牙をむき出しクワ~ッと口を開けた怖い顔がよぎった。

ラジオを掛けっ放しにしているので放送の中にそんな言葉が出たのでは?と思い、ホームページを調べたがそれは全く無関係だった。

気になってノワタリさんに伝えると、

「龍神様が御呼びですね。出来たら、私も行きたいですね。」と言われ、京都へ行く前日に足を伸ばす事となり その他神社を調べると、八幡様と恵比寿様があった。

今回、宿だけ押さえただけで、飛行機を手配する気が起きなかった訳が分かった。なぜか迷い取れなかった。妹はやきもきしていたそうだ。

其処はほぼ足摺の対角線上にあり、白鳥と隣で今は同じ東かがわ市である。7月に引き続いてまた行く事が不思議に感じる。なぜ、同じ瀬戸内海でも愛媛でないのだろう?ノワタリさんは、

「行けば、分かりますよ。」と、やんわり言われた。

今回は坂出まで車で行き、ノワタリさんと合流して引田でお清めをしてまた、坂出からJRで京都に向かい、解散後また坂出から車で帰ることになり、やっと計画が本決まりになった。

妹に伝えると、

「私が動けるようにうちの両親が元気なのよ。」と、言う。

有り難い事である。仕事を持っている私には時間、費用、人、どれが欠けても出来ない事である、感謝しなければならないと改めて思った。


生前の生き様

2012-08-22 00:14:54 | 霊現象

昼間の通り雨のお陰で大分涼しくなり、先週つくつくぼうしの鳴き声を耳にしたと思ったら、虫の音がしだした。昼間の暑さが嘘のようである。

前回 父方の叔母の葬儀と書いたが、弔辞を頼まれた。しかし、私は疎遠で付き合いがない。

「疎遠で余り知りませんし、懇意にされてる方が読まれるほうがいいと思うけど。」と言って、断った。

私が知っている叔母の姿と言えば、20年ほど前に大阪の従兄弟の結婚式に参列ついでに京都観光を一緒にした事しかなかった。

その姿は金銭的にとても厳しく、未だにそれを上回る人はいない。義理の叔母と3人で周ったが、後の二人をうんざりさせるものだった。

当時消費税は3%、私は忘れていたが、義理の叔母が言うには

「みたらし団子1パックが350円で割り切れない。」と、文句を言い、高々しれている1円2円の事である。別れ際に京都駅でコーヒーを飲み、「支払いは一括で」と言われ、また割り切れず文句を言い始め、

「速くしないと 新幹線に間に合わないわ。」と、そわそわしだした。

しまり屋の義理の叔母でさえぶち切れて、

「こんなもん、いいわよ私が払うわ!」と言わせた。叔母はその言葉を待ってたみたいにそそくさと走っていった。

しかし、陸続きの九州、そんなに慌てる事も無い。私達の方が乗り換えもあり不便である。

案の定、チケット売り場でもたもたしている姿を見かけた。

帰宅して親にそれを言うと、2人とも呆れてしまい「そんなもの、全部払ってもしれているのに。」と言ったが、観光地に着くと、「カメラが無い」と言い出し、使い捨てカメラを買ったのは私。

口は出しても一切金は出さないし、宿の手配からすべてお膳立ては私だった。

1円でも余計に自分が出す事は許せないみたいで、出すべきものも人に迷惑を掛けても夫婦が共に出さず、財産を残した。

そんな事しか知らない。それを弔辞として言えば、大変な事になるだろう。

弔辞は友人の娘さんと言っても65歳の方が涙声で読まれ、時折喉を詰まらせた。

編み物や木彫りの趣味があり、その方は結婚祝いにもらったと言われた。

隣にいた義理の叔母と突きながら「ねぇ、もらった事ある?」「無い。そんな趣味あったのも知らないわ。」と、小声で話した。親族席は、3年近く患っていたので、諦めもありもう誰も泣く人も居らずご苦労様と言う感じだった。

広いホールに立派な祭壇、院号を付けてあるのに、なぜかお坊様は一人。参列者も身内親族が10人余りとご近所友人も同じくらいでこじんまりと2列ぐらいで 今まで参列した葬儀の中で一番寂しいものだった。生前の姿が現れている。普通のおばあちゃんってこんなものなのかしら?不思議に思ったのは従兄弟の同僚や友人の姿はなかった。

お経が途切れたのでふと前を見ると、一人で鳴り物をガチャガチャと鳴らしていて忙しい。

余り係わりたくなかったので、食事を済ませ葬儀場に行き、フェリーの便を口実に葬式が終わり、火葬場に向かうバスに一旦乗ったものの、松山の従兄弟が乗ってこなかった。

「微妙なんだよ。に乗れるかどうか。」と言う。予定表では17時にはまた、帰ってくるようになっていたが、どうも遅れそうである。

残っていた従兄弟のお嫁さんに確認すると、渋滞に巻き込まれると、火葬場は遠いので17時半でも帰れないそうであったので、そこで見送り、義理の叔母と従兄弟と駅に出た。野辺の送りもまた、いっそう寂しいものになった。

その晩、からをいれ、挨拶もせず帰った事を詫びたが、もう従兄弟達とも付き合うことは無いだろう。

具合が悪くなってから、叔父が先に急死し、心配した母が何かと送ったが、従兄弟達は冷淡で生物を送っても叔母にすぐに食べさせず、母が電話で指示する有様だった。

ノワタリさんはよく言われるが、

「自分のしてきた事を見せられ味合わないと逝けれない。」

その言葉通りの最後を過ごさなければならなかった人の姿を他にも身近に見せられた。

亡くなった叔父は父を裏切り続け、仕事もいい加減であった。他人の所ではたぶん務まらないであろうと思う。

その叔父の最後の3年はとても厳しく、生き地獄であった。

60代でありながら 喉に食べ物を詰まらせ、一旦息を吹き返したものの、肺に雑菌が入り高熱が続いた。

熱も下がり正気に戻った時には、手足どころか痰を吐くことも出来なくなっていた。

その状態で3年近く寝たきりで過ごし、未だに成仏は出来ていない。

その事を知ったのは嫁いだ従姉妹の新築の家に行った時、ドアを開けると息苦しかった。

「この家、息苦しいわね。」

「え!やっぱりそう思う?」と、従姉妹は驚愕して言ったが其処もノワタリさんに遠隔をしていただいたが、

「男の人が首をギューと大きな手で絞められてます。」と言われた。

食べ物を詰らせたことになっているが、見えない手で食事中に絞められたらしい事が分かった。

ある程度の事までは従姉妹もしたが、少し楽になると、此処も中途半端で終わってしまっている。

生き様が大切である。後もそれを引き続く事になる。それを私に知らせているみたいである。