小山市立博物館のあとは、栃木県立博物館で開催している「宇都宮藩主 戸田氏」展を観ました。
江戸時代、今の宇都宮市の中心地には宇都宮藩が置かれていました。藩の拠点は宇都宮城。藩主は時期によって様々に交代しますが、戸田氏の治世が最も長かったようです。戸田家は三河時代の徳川家から仕えており、当時の戸田家当主忠次は数々の戦歴があったようです。領地でいえば、江戸時代の初めの石高は伊豆の5000石でしたが、しだいに幕府に重用されるようになり、忠昌の代になると老中に昇格。以後は全国に転封されながらも、6万から7万石の大名として存続しています。
展覧会会場では戸田家のルーツから始まって、戸田家の甲冑、陣羽織、刀剣のほか、江戸の戸田家屋敷を描いた絵図(まるで植物園のような)などの豊富な資料が一同に展示されていました。
私がなかでも気になっていたのは、戸田家8代目の藩主である戸田忠翰(ただなか)の絵画。沈南蘋に影響(正確には沈南蘋の弟子の熊斐)を受けた森蘭斎に絵を学んだとされ、とても見事な花鳥画の作品を残しています。その絵はなかなか写実的ではあるのですが、ほぼ同時代の伊藤若冲のような華やかさはなく、武士らしい無骨な印象を受ける画風です。ポスターやパンフレットにも使用されている《白鴎鸚鵡図》や《白鷺図》などはモチーフが鳥にもかかわらず、どこか筋肉質で力強いものでした。
こうした忠翰の作品を観ていくと、福島県の白河集古苑で観た徳川綱吉の描いた馬図や、仙台市博物館の「宇和島伊達家の名宝展」で見た伊達綱宗の指面、秋田藩の佐竹曙山の秋田蘭画などが思い出され、将軍や藩主のなかにもプロフェッショナルな技術を持ち得た人物がいることに改めて驚かされました。
おそらく戸田忠翰の作品をまとまった点数で観られる機会は早々無いはず。貴重な機会を得ることができて感謝の一日でした。
江戸時代、今の宇都宮市の中心地には宇都宮藩が置かれていました。藩の拠点は宇都宮城。藩主は時期によって様々に交代しますが、戸田氏の治世が最も長かったようです。戸田家は三河時代の徳川家から仕えており、当時の戸田家当主忠次は数々の戦歴があったようです。領地でいえば、江戸時代の初めの石高は伊豆の5000石でしたが、しだいに幕府に重用されるようになり、忠昌の代になると老中に昇格。以後は全国に転封されながらも、6万から7万石の大名として存続しています。
展覧会会場では戸田家のルーツから始まって、戸田家の甲冑、陣羽織、刀剣のほか、江戸の戸田家屋敷を描いた絵図(まるで植物園のような)などの豊富な資料が一同に展示されていました。
私がなかでも気になっていたのは、戸田家8代目の藩主である戸田忠翰(ただなか)の絵画。沈南蘋に影響(正確には沈南蘋の弟子の熊斐)を受けた森蘭斎に絵を学んだとされ、とても見事な花鳥画の作品を残しています。その絵はなかなか写実的ではあるのですが、ほぼ同時代の伊藤若冲のような華やかさはなく、武士らしい無骨な印象を受ける画風です。ポスターやパンフレットにも使用されている《白鴎鸚鵡図》や《白鷺図》などはモチーフが鳥にもかかわらず、どこか筋肉質で力強いものでした。
こうした忠翰の作品を観ていくと、福島県の白河集古苑で観た徳川綱吉の描いた馬図や、仙台市博物館の「宇和島伊達家の名宝展」で見た伊達綱宗の指面、秋田藩の佐竹曙山の秋田蘭画などが思い出され、将軍や藩主のなかにもプロフェッショナルな技術を持ち得た人物がいることに改めて驚かされました。
おそらく戸田忠翰の作品をまとまった点数で観られる機会は早々無いはず。貴重な機会を得ることができて感謝の一日でした。
とされる、下野の宇都宮義綱と、宇都宮貞泰の
息子の一人とされる、京都の宇都宮義綱は、実は同一
人物で、宇都宮義綱は宇都宮貞泰の実の息子では
なくてホントは養子。下野宇都宮の宇都宮義綱の息子
の宇都宮氏家は、京都の宇都宮元綱と、実は同一人
物で、氏家から元綱に、後で改名したのだと、私は思
います。
参考url:
ttp://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/fujiwara/fujiwara_hoku/fujiwara_hoku41.html
宮義綱は、京都定住と記載しました。
それに対し、wikipediaの「宇都宮貞秦」に宇都宮義綱
の記載があり、九州の豊前宇都宮氏(城井氏)の地域
に転居したとされています。
実はwikipediaの「宇都宮貞秦」の記載は、偽歴史書
に基づいたものです。
安土桃山時代に、城井氏を伊予宇都宮氏の居住区に
豊臣秀吉が強制転封させようとして。姓が違う、伊予
宇都宮氏と豊前宇都宮氏が、同族であるように見せ
かけるため、秀吉の手によって作成された、偽歴史書
があり。内容がwikipediaに反映されていると、2011
年11月26日に、栃木県庁で行われた「宇都宮氏シン
ポジウム」で、豊前宇都宮氏研究者の則松弘明氏
より聞き取っています。そこで上の私の書き込みでは、
則松説に従って、記載を直しました。
つまり、宇都宮貞泰、宇都宮義綱、小山よし姫、
宇都宮元綱、計4名が、北九州へ転居したという記録
は、偽物であり、正しくは京都に、定住していたと見ら
れるということです。
なお前出の、下野宇都宮氏の当主、宇都宮氏綱の
弟の一人、宇都宮家綱(南北朝時代の)が、豊前
宇都宮氏の娘の婿になった可能性があります。つまり
小山よし姫(旧姓、宇都宮義綱の娘(?))にとって、
九州へ移住したのは、両親、自分や兄、弟ではなくて、
実際には、自分の叔父一人だけだったということです。
昔の将棋駒が、出土していると思うんですが。
紹介した駒は、ウルトラ希少駒5人衆ですね。
時代順に並べると、その5人衆は。
興福寺の「酔象」駒。平泉の「飛龍」駒。
川西遺跡の「本横」駒。鶴岡八幡宮の「香車?」駒。
そして小山の「角行」駒。各1枚。これだけですから、
記憶も極めて容易です。こういうの。めったに出無い
んですね。
他の駒は。今でも、東京千代田区の奥のかるた店
あたりで。同じ物が全部売られています。
ようするに、残りの995枚の出土地点については。
「その時代のメジャーな将棋を、そこでも指した」という
情報があるという程度。将棋史の、大枠を決めるには
歴史的には重要でしたが、現在ではほぼ解決済みに
なってしまっている、という事かと思います。
追記。元寇の頃の小山の第5代当主。小山時長の
正室は、(宇都宮宗綱から数えて)宇都宮第5代
当主の、宇都宮泰綱の娘です。説明で抜けてました。
こんばんは。コメントをありがとうございます。
小山市神鳥谷曲輪遺跡の「角行駒」が、「成ると(裏が)「金」(一字)と書かれた、出土駒としては、日本でたった1枚の、希少性巨大な遺物」なのですね。驚きです!
出土の駒から今後も様々なことが引き出せそうですね。詳しくお教え頂き、ありがとうございました!
帖タイプも含む)の研究で名高い、大阪電気通信大学
の高見友幸教授が、昨日(6月8日)の産経新聞で。
この将棋の発生年代を、相当に古く、大きく広げて
紹介してますね。高見説の確証となる文書は、実は
未発見なのです。産経新聞の文面を、良く読めば
分かりますが。(困惑)
通常は、異性庭訓往来の「数360程度に関連した
『多い将棋』∋摩訶大将棋(聆涛閣(れいとうかく)
集古帖タイプ)」の、「∋」記号を、遊戯学会では
「=」と単純にみて、私の説明のように、「摩訶大将棋
は南北朝時代に発生」と推定しています。
×2009年→〇2007年(春)
小山市神鳥谷曲輪遺跡で2009年に発掘された
「角行駒」が。今でも学会から、余りに冷視されて
いるので、いろいろ書いてしまいました。
この駒、成ると(裏が)「金」(一字)と書かれた、
出土駒としては、日本でたった1枚の、希少性巨大
な遺物なんですよ。普通の角行は、裏は「馬」です。
簡単に言うと。虎関師錬の南北朝時代の著作。
異性庭訓往来の「数360程度に関連した『多い
将棋』∋摩訶大将棋(聆涛閣(れいとうかく)集古帖
タイプ)」だけで、使える駒という訳です。
残念ながら、寒河尼は平安末期の時代の方で
摩訶大将棋はまだ無く。第5代当主の小山時長
の正室も宇都宮氏の娘ですが、鎌倉時代中期に
至ってもまだ、摩訶大将棋が有ったという確定
記録がありません。他方戸田おくらは、江戸時代
中期の方なため、摩訶大将棋は、もう廃れて
指されておらず、そもそも戸田おくらは、
栃木県小山市とは、たぶん縁が有りません。
そのため、この駒は、将棋女流棋士タイプの
第4の女性。南北朝時代の小山義政の正室、
小山よし姫に関連すると考えて見る位にしか、
今のところ関連付けが難しいのです。なお。
クシと女物の下駄と将棋駒で、南北朝時代の
神鳥谷曲輪の戦陣に居た小山氏の男性武家を
象徴するという既説も変ですね。火鉢の破片の
家紋も、2つ巴ではなくて、確かに左三つ巴紋
のようですし。
コメントをいただき、ありがとうございます。
なるほど、「小山義政と戸田忠翰には。将棋の強い、
女性が両方ともに関連しているという、共通項」が
あるとは驚きです。時代は違えど、同じ下野国で
このようなことがあるとは不思議な感じですね。
宇都宮氏と小山氏の関係、なかなか興味深いです。
私は展覧会を観ただけで、当時の歴史的な背景まで
はわからなかったので、とても勉強になります。
私は美術が専門ですが、知識はないものの歴史も
とても好きです。これからも色々と勉強させてください!コメント、ありがとうございました。
言う寒河尼は、源頼朝と木曽義仲(右腕志田義広)
との力関係、形勢判断をプロの女流棋士のように
巧みに行い、結果的に小山義政等の権力を、南北
朝時代にいたるまで巨大化させた、鎌倉初期の
宇都宮当主、宇都宮宗綱か朝綱の娘であり、将軍
源頼朝のお気に入りの女性。
戸田忠翰の父親の戸田忠寛は、戸田氏第2期宇都
宮藩の初代藩主で、将棋将軍・徳川家治の時代の
当主。その田原戸田氏の親類の、戸田宗家の分家
で、徳川家治時代の武士、戸田光武の娘に、
戸田おくらという女性がおり。その女性は将軍
徳川家治の将棋指南であるほど、将棋の強い女性
で、なぜか将軍家治のお気に入り。
つまり、小山義政と戸田忠翰には。将棋の強い、
女性が両方ともに関連しているという、共通項が
あります。
なお。小山義政の妻の小山よし姫も。藤原の氏
の女である点に於いて、宇都宮家の出である事を
否定できず。小山義政館とも言われる神鳥谷
曲輪遺跡で、将棋の駒とともに、同じ井戸跡から
左三つ巴の家紋の入った、火鉢の破片や
女物の下駄、クシの歯が、同時に出土する等、
八号井戸跡の一部の遺物が、ひょっとして
小山よし姫を表しており、姫もまた宇都宮の出では
ないかとのの疑いが、一部で持たれています。
ひょっとして南北朝時代初期に京都烏丸に居住
した、宇都宮貞泰の息子の一人。無名ながら
伊予の守の代理を務めたと想像される、宇都
宮"義"綱の娘かとも。
ちなみに、宇都宮第11代当主の宇都宮基綱と
京都の宇都宮義綱の息子の名、宇都宮元綱の
名前は、異字同音。10代宇都宮当主の宇都宮
氏綱が、「伊予の守は、”うつのみやもとつな”に
継がす」と口頭で遺言していたとすれば、伊予の
守をうまく京都が、下野から2代で、奪取した
ことになります。