鎮守の森の学校(京都北山細野の神主)

日々感じる事を想いのままに書き綴っています。神主として品位に欠ける表現が有るのはボケが始まったとお許しください

終活の意味を取り違えてた。終わりの準備では無く・人生最後の活動だった

2020年10月17日 | 傘寿からのチャレンジ

傘寿の年を過ぎてから、周辺では終活という言葉が出始め、自分でも周辺の始末を始めなきゃと、ボチボチ始めているつもりです。

ところが、性格が性格ですので、後ろを振り返ることが苦手なもので、今だに新しいものを見れば興味がわきます。

住まいの周囲や持ち物を整理し始めてきましたが、気がつけば、また新しいものに手を出し、道具や本などを買っています。

クタバッた後、妻や子どもたちに、後始末に時間と労力をかけさせないための行動が、終活と世間では誤解しているのではないか?

神道では神の御霊(ミタマ)を授かってこの世に生まれてきて、死ねば御霊はまた神のもとに戻って、子供達を見守ると信じられています。

それなら、折角神から授けられた命を、年令を重ねたというだけで、死を待つ準備だけで終わるような終活は、神の御意思に反するのではないか?

神のもとに帰る日まで、いただいた命を、精一杯使い切る努力こそ、神様のご意思ではないか?

今日になって、又従兄弟の嫁と、従妹の夫の訃報が入りました。二人共永く患って入院を繰り返していました。

元気な私(ガタは来ていますが)が、生きている間に死んだ後の準備をするということは、神様のご意思に反する怠けた行為ではないのか?

人間は病気や怪我で死ぬのではない、寿命が終われば死ぬのだと常々思っている私としては、神様から授かった寿命を大切に使い切りたい。

そのために、日頃から身体の調子を整え、飲食に注意をはらい、節制に努めて、神様からいただいたこの生命を、精一杯使い切りたいと、あらためて思いました。

後始末はすべて子どもたちや周囲の者に任せて、精一杯終活することに決めました。(子供達や周囲の者。親族のもの達にはまだ話していませんが)

「好きなことをやって死によった。だけど精一杯生きよった。」と思われる人生を送ることが終活と思いたい。

明日はどうなるかワカラナイが元気のある今日を大切に生きたい。今更この歳になって、世間的な名声や金を得ることは子供達も望んではいないだろう。

何だか?この思いも私が書くと、遊びの言い訳に感じるのは、私だけだろうか? 日頃の行いからして。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (マスキ)
2020-10-17 18:04:44
道楽の言い訳か!
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Unknown (マスキ)
2020-10-17 18:12:07
最初10行読んで、前記のコメントを書いた。そして最後まで読んだら、自分でも「遊びの言い訳」と書いている。わかっているのか。
返信する

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