傘寿の年を過ぎてから、周辺では終活という言葉が出始め、自分でも周辺の始末を始めなきゃと、ボチボチ始めているつもりです。
ところが、性格が性格ですので、後ろを振り返ることが苦手なもので、今だに新しいものを見れば興味がわきます。
住まいの周囲や持ち物を整理し始めてきましたが、気がつけば、また新しいものに手を出し、道具や本などを買っています。
クタバッた後、妻や子どもたちに、後始末に時間と労力をかけさせないための行動が、終活と世間では誤解しているのではないか?
神道では神の御霊(ミタマ)を授かってこの世に生まれてきて、死ねば御霊はまた神のもとに戻って、子供達を見守ると信じられています。
それなら、折角神から授けられた命を、年令を重ねたというだけで、死を待つ準備だけで終わるような終活は、神の御意思に反するのではないか?
神のもとに帰る日まで、いただいた命を、精一杯使い切る努力こそ、神様のご意思ではないか?
今日になって、又従兄弟の嫁と、従妹の夫の訃報が入りました。二人共永く患って入院を繰り返していました。
元気な私(ガタは来ていますが)が、生きている間に死んだ後の準備をするということは、神様のご意思に反する怠けた行為ではないのか?
人間は病気や怪我で死ぬのではない、寿命が終われば死ぬのだと常々思っている私としては、神様から授かった寿命を大切に使い切りたい。
そのために、日頃から身体の調子を整え、飲食に注意をはらい、節制に努めて、神様からいただいたこの生命を、精一杯使い切りたいと、あらためて思いました。
後始末はすべて子どもたちや周囲の者に任せて、精一杯終活することに決めました。(子供達や周囲の者。親族のもの達にはまだ話していませんが)
「好きなことをやって死によった。だけど精一杯生きよった。」と思われる人生を送ることが終活と思いたい。
明日はどうなるかワカラナイが元気のある今日を大切に生きたい。今更この歳になって、世間的な名声や金を得ることは子供達も望んではいないだろう。
何だか?この思いも私が書くと、遊びの言い訳に感じるのは、私だけだろうか? 日頃の行いからして。