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いま、そのとき、かんがえつつあること。

自分のコミュニケーションを観察する

2008-03-27 | にんげん
「コミュニケーションに障害はありえない」はてなブックマークで ちょっと いい評価をもらったので続編というか、反省文をかく。仕事での反省文。いまの職場での反省じゃなくて、そのまえの高校でのはなし。高校で おしえたのは3ヶ月だったけど、それでも いろいろ感じるところは あったのでした。

反省文という意味では、「自閉者と自分勝手なコミュニケーション」に ちかいかも。ご期待くだされ。

それにしても、「自分勝手は おたがいさま」ということが わかってしまうと、ふとしたことで、だれかの一方的な態度が気になって、むかついたり、納得できなかったりしてしまう。
ということはですよ!!!!!


「あのひとは勝手だ」。


もう、こんな ことばは いえないですよ! だってね、勝手だと おもうのは、勝手にも こういうときは こう反応すべきだっていう想定を、勝手に自分のなかに つくりあげてしまっているからでしょう?
こう かんがえちゃうと、もう「勝手だ」って いわれて すなおに、「はい、すみませんでした」で すませなくなっちゃう。

だから、問題にすべきは「だれが(よりいっそう)自分勝手なのか」では なくて、「どちらに(よりいっそう)権力があるか」なんだよね。コミュニケーションを抑圧するのは、そういう権力のちがいであって、「どちらが勝手か」じゃない。

だから対等な関係をつくっていくことが たいせつなんだけど、なかなか そうも いかないわけだ。それは「対等に議論するということ」に かいたとおり。


わたしはコミュニケーションが すごく苦手で、職場とかだと、ほとんど話をしない。心をゆるすと さわぎはじめるので、そのギャップで びっくりされる。

え? コミュニケーションが苦手だなんて、そんなはずはないってのが おまえが かいてることだろって? そうなんです。さっそく撤回します。

苦手だというのは、どういう意味だか わかりますか? わたしは ただ、ほかの だれかと自分を比較して、わたしは あんな感じじゃないけど、できたら あんなふうに なりたいなあと おもっている、ということなのです。それを苦手だと表現しているだけ。そういうはなしは、「「ほんとうの わたし」」に かいた。
だれしも いろんな面をもっているもので、ある面をみせていたら、みせていない面は指摘されない。それで、「ほんとは そうじゃないのに」と感じたりもする。けど、その「ほんと」なんてのは、ほかの だれかには みせていて、そのひとには また別の面をみせていなかったりするものだ。まるい地球は いつも すべての面が太陽のひかりをあびているわけではない。スポットライトがあたれば、どこかは影に かくれるのだ。それを、「ほんとうの地球は」などと いっても しかたがない。
この、「スポットライトがあたれば、どこかは影に かくれるのだ」というフレーズが自分では気にいっている。

そういえば「身勝手な期待と想定」というのも かいた。
…相手をみるとき、いつもそこには自分自身が てらしだされているのだということ。そして、相手になにを期待しているのかによって、そのひとの みえかたが かわってくるということ。勝手に想定しておいて、それとは べつの様相をみせたから、このひとは「この程度のものだ」という評価のしかたは まちがっている。だが、そういう ものの見方を、わたしたちは、よくもまあ日常的にしている。
これも すきだな。自分でも、ほんとに そうだよなあと おもってしまう。