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いま、そのとき、かんがえつつあること。

言語学と社会言語学の関係

2008-03-30 | ことば
言語学と社会言語学との関係については、「語用論の意義」に かいた。
最近の言語学のテキストには たいてい語用論について一章もうけられている。語用論は要するに、ことばの意味は じっさいの発話が なされる状況や相互作用によって つくりだされるという着想による発話やその意味の研究だ。

語用論をやるには、社会的文脈を無視するわけには いかないので、語用論を言語学の一分野とかかげる以上、社会なき言語学は成立しえない。もちろん、語用論を無視したところで社会を射程にいれない言語学は限定された問いを発することしかできず、その こたえも おのずと限定されたものになり、結局のところ言語学とは社会言語学のことだ(ラボフや田中克彦=たなか・かつひこの主張)。それは、語用論を例にあげなくとも おなじことだ。

「そんなの全体主義じゃないか!」という、ひとことを例にあげよう。そのひとが どのようなものを全体主義と とらえているのかが不明であれば、なんのことやら わからない。その社会で全体主義がどのように とらえられているのかも しる必要がある。そのまえに、どのような会話がされていたのかも おとせない情報だ。なにより、全体主義にたいして、どのような評価をあたえているのかが重要になる。一見なにか否定的に とらえているようには推測されるが、かならずそうだとも断言できない。

たとえば敬語論をやるさいに社会論ぬきには やれないのは当然のことだが、「そうなると もはやそれは「言語学ではない」」なんてのは まちがいだ。それは語用論の範囲で できることだ。社会のありかたをきっちりと研究することなしに語用論の意義などない。それでは従来の意味論に毛が はえただけのものになってしまう。

「社会言語学」を自称することの利点は、研究の自由度が保障されることにある。従来のいわゆる言語学にとどまらない言語現象の研究を「社会」という おおきな観点から せまる。そういう共通認識があれば すむからだ。社会なき言語学を「ゆるしてあげる」ために社会言語学をやるのではないし、言語学は社会をとりあげないからだめなんだと固定観念で きめつけて、社会言語学の優位をとなえるためではない。

日本の社会言語学は語用論をないがしろにしてはいないか。語用論をふまえた議論の仕方が できていないのではないか。そんなことを念頭において、社会言語学をふりかえってみるのも いいかもしれない。
社会言語学を言語学の外部に位置づけるのは、さけたいと おもっている。

社会言語学とは なにかという議論は あれこれと あるのだが、すこしまえに、ひとつ最適の定義をみつけた。

ルイ=ジャン・カルヴェによる『社会言語学』クセジュ文庫だ。カルヴェはこの本で、つぎのように強調している。

「言語学の研究対象は、一つの言語ないし複数の言語であるにとどまらず、言語の観点から見た社会共同体にまで及ぶ」(156ページ)。

そして、つづけて つぎのように のべている。
こうした視点からすれば、社会言語学と言語学を区別する余地はもはやない。ましてや、社会言語学と言語社会学を区別する余地など、あるわけがないのである。
なんとも すがすがしい論述であると おもう。

さて、コミュニケーションの民族誌研究としてハイムズの『ことばの民族誌』を紹介しておいたが、ほかにも紹介すべき文献はある。ただ、言語至上主義をこえたコミュニケーション研究ではない。

ジョン・ガンパーズ『認知と相互行為の社会言語学-ディスコース・ストラテジー』松柏社
井上逸兵(いのうえ・いっぺい)『ことばの生態系-コミュニケーションは何でできているのか』慶應義塾大学出版会株式会社

あとは、ゴフマンの諸文献がある…。ゴフマンには、いまだ手つかず。

というか、わたしが よみたいと おもっているコミュニケーション論は、どこにあるのだろうか。それが なかなか、みつからない。みつけられないでいる。

じゃあ、つくる? いっしょに。