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いま、そのとき、かんがえつつあること。

映画『マラソン』

2006-05-19 | 映画
映画評を訳した一週間後に当の映画をみた(それってどうなのって いわないでね。はぁと)。韓国の映画『マラソン』でございます。

自閉者がマラソンをするという話なのだが、母と子の関係をうまく えがいている。まだ おさないころに、母は動物園で子の手をはなしてしまう。当時、そだてていく自信をうしなっていたからという。けれど、いちど手をはなすことで、この子とは「はなれられない」と感じることになる。なにか ひとつ さずけたい。それがマラソンだった。母は、マラソンをおしえること、はしらせることが いきがいになる。

飲酒運転で200時間の社会奉仕を義務づけられ、コーチをすることになった元マラソン選手が印象的だ。てきとーで、口ぎたなく、いいかげんに主人公チョウォンと接する。肩に ちからの はいった母とは、ちがった存在だ。

チョウォンには きょうだいがいる。父親もいる。けれど、「母」はチョウォンだけを気にかける。夫やきょうだいの気もちが はなれていくのは当然のなりゆきで、関係に和解がおとずれるのは、「母」が おもいあらため、よろいをぬいだときだ。

ひとは、波のように ゆれうごく。おもいあがりもし、まいあがりもし、はたまた後悔し、くいあらためる。「執着」が ほどかれたとき、カードをうらがえすように、もうマラソンは「させない」という。ひとが、なにかをみつけるのは、自分をしばりあげていたクサリをほどいたあと、あらためて冷静になってみたあとである。

本人の意思とは関係なくマラソンさせることも、させないことも、方向にちがいはあれど、結局は おなじことをしている。「この子」がすきなことは なんだといえば、チョコパイとジャージャー麺とシマウマである。それは わかっている。では、マラソンはどうか。それは、いったんは わからないことである。本人に きけば わかる、内面をのぞいてみたら わかる、というものだろうか。

「ほんとうに すきなこと」はなにかと きかれ、すぐさま即答できるひとはすくない。「ほんとうに」というのが、やっかいなところだ。ほんとうに すきなこと。さめた目でみれば、そんなものは偶然であったり、これまで つみかさねてきたものが あるからというだけで、「ほんとうに」というのは幻想だ、ごまかしだ、いいきかせてるだけだ、という話になる。しかし、たとえ幻想であろうと、このさき どうであろうとも、「いま」わたしは こうありたい、こうしたいと おもっているというだけで じゅうぶんではないか? 「ほんとうに そうなのか」という といは、一種のワナではないか。すきだということも、きらいだということも、「すきであり、きらいでもある」ということも、そんなに オーゲサに とらえる必要はない。肩のこる話はやめて、自分をほどかなくてはならない。よくは わからないけれど、すきなのかもしれない。わたしは、そこで とどめておきたい。それ以上とらわれてしまうと、いつのまにか うそになってしまうからだ。うそといえば つよい表現になるが、ともかく、自分に いいきかせるようになるからだ。

どこかで、いいかげんにならないといけない。でないと、人間が すくわれない。

おっと、はなしが それたようです。

『マラソン』は いい映画です。きちんと感動できるラストを用意しています。「動物王国」というテレビ番組のナレーションであるセレンゲティ草原の動物たちの おはなしが、うまく物語と くみあわされている。

母親は、いろんなことをさとり、家族は和解する。映画のクライマックスでは、チョウォンの日常の断面しか しらなかった ひとびとが、マラソンをするチョウォンに拍手をおくるシーンが うつされる。奇異の目をむけていた ひとびとが、こんどは拍手をおくる。これもまた、カードをうらがえしただけのことだ。評価する側と、評価される側は固定化されたままである。評価する側は、もういちどチョウォンと対面する必要がある。こんどは、劇場やテレビのまえではなく、日常をいきる「チョウォン」と「わたし」としてである。そうすれば、なにかをさとるにいたるであろうか。「評価する われわれ自身」のありかたをみつめることが できるであろうか。

「ほんとうの」ハッピーエンドは まだ、これからだ。(ここで、「ほんとうの」がでてくるのね。やるじゃないか。わたし。(いや、ただの おもいつきです。

グーグル:「マラソン チョウォン」