労組書記長(←元)社労士 ビール片手にうろうろと~

労組の仕事している勤務社労士がもしや誰かの役に立ってるんかな~と思いつつ飲んだくれて書いてるっす~(* ̄∀ ̄)ノ■☆

旅ガイドブックにはあまり載っていない、一般的なツアーではあまり行かない、という沖縄南部の戦跡について案内していただいた

2017-04-14 | 反核平和 Save The Our Earth🌐


 後日、整理してからこのブログで書くと思うが、ある目的を持って、仕事として訪沖。
9回目の沖縄ながら、仕事として訪れるのは初めてだ(8回目の訪沖は「平和行進」に参加し、青年女性協議会の皆さんと交流もしたが、これは個人的自費で参加したので、公務ではない、とりあえず沖縄での一食目は、ソーキそば)。
さて、本日は、ベテランのバスガイドさんが、レンタカーを使って、我々に沖縄を案内してくれるのだ…。

 最初に案内していただいたのは、ガイドさんむらたん曰く、「映画でも知られ、多くの人々が足を運び花を手向ける 沖縄県立第一高等女学校及び師範学校女子部の乙女らを祀る『ひめゆりの塔』に対して、あまり知られていないのが、糸満市国吉にひっそりと建立される、県立第二高等女学校の乙女らを祀る『白梅の塔』があります。」
「ここに奉られている白梅学徒隊とは沖縄戦で従軍看護婦として活躍して犠牲になった女子学徒隊のうち、沖縄県立第二高等女学校の四年生たちによって編成された部隊です。」


 「沖縄戦で従軍看護婦として、ひめゆりの乙女達と同様に看護勤務にあたったのですが、彼女たちは当時4年生だったということもあり、繰り上げて卒業をしたのち、教員の引率はなく、最後まで軍と運命をともにしました。」
その後、彼女たちが潜みつつ活動しそして自決もしたというガマに入壕させてもらったが、最初の広いところよりその先までは、暗闇に足がすくんでしまってそれ以上進めなかった。


 続いて「魂魄の塔」に案内してもらった、いつもこのそばに車を止めてスーサイドと呼ばれる海岸で波乗りしていたのに、ここをお参りするのは初めてだ。
「この地は今次大戦でも一番の激戦地であり、日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって倒れた屍が最も多い激戦地の跡でした。戦後の昭和21年2月、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの『魂魄の塔』です。祭神三万五千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔でありましたが、その後、昭和54年3月、摩文仁の丘に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨して安置されました」
 
 和魂(にぎたま)と なりてしづもる おくつきの み床の上を 渡る潮風



 「魂魄の塔」のそばにある広島の碑にある黒い3つの石柱は「非核三原則」を表しているそうだ。
「沖縄戦終焉の地・平和祈念公園は、平和の礎や各都道府県の慰霊塔がおなじみですが、最近は訪れる人がめっきり減ってしまった摩文仁の丘の南断崖、海岸近くに建立されている、健児隊を祀る健児の塔です。」
「先日、美空ひばりさんの生誕80周年記念歌番組でも、ひばりさんが沖縄公演の際に健児の塔を訪れ、祈りをささげたシーンが紹介されておりました。そういえばここ10年ほど、お客様を案内したことがないなぁとその時ふと思いました。慰霊塔の近くには、当時健児隊が使用していた防空壕も残されており、天井部分は米軍の火炎放射器による攻撃を受け、焼かれた後や弾痕も残っています。」

 最後に「ここから綺麗な海が見れますよ」と、具志頭城跡公園に案内していただいた。
ここに「土佐の塔」という、沖縄や南方地域で戦没した高知県出身の方々の慰霊碑があった、自分は父方は「三河→紀州→大阪」の血で、母方は純血の土佐っぽ、どういう導きだったのだろう…。

 ガイドさんに「せっかくですからお参りしていただけませんか」とそれぞれの慰霊碑で促される。
いや、言われるまでもなく、頭を垂れ黙祷し合掌する、「今の安倍晋三総理率いる安倍自民党や公明党などが『再びあの時代』に、日本国民を導こうとしていますが、『繰り返しません、過ちは』の約束を守るために、自分は微力ながら出来うる限りの運動をします。」
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 火鍋→伊香保温泉→夕暮れサー... | トップ | 深夜1時半のステーキ!仕事後... »

コメントを投稿