滋賀民俗学会 七と十一の文化続編
長谷川
◆はじめに
滋賀民俗学会の発行した機関誌『民俗文化』の発行
は菅沼会長の他界により刊行は停止、拙稿七と十一の
文化の続編は刊行されなかった。しかし戦国史年号や
年表を見る度に七や十一の文化の潜在特に日本史学が
十一の文化を看過している事に、私は再注目し始めた。
日本人にとり、七は吉数と言う事は流布認識されてる
しかし十一の文化は看過見過ごされていると言わざる
を得ない。
長谷川
◆日本人の日和「ひより」吉日思考や発想
『信長公記』には、元亀天正の昔、日和博士が朝廷に
存在した事を記録している。季節を知るのが暦こよみ
であり吉日を選定するのが日和「ひより」である。
◆元亀年号から天正年号へと過渡期
『ウッイキぺデイア』から天正を引用すると
- 元亀4年7月28日(ユリウス暦1573年8月25日)
- 戦乱などの災異のため天正に改元
- 天正20年12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日、
- ユリウス暦1592年12月31日) 文禄に改元
足利義昭を京都から追放した織田信長が、公卿や朝廷
を通じて改元させることに成功したと言われ、『お湯
殿上日記』元亀4年7月21日条(義昭追放の3日後・改
元の7日前)にも、信長から改元の奏請があったことが
記されている。ただし、朝廷では改元についての議論
が既にその1年以上前から行われており、『お湯殿上日
記』元亀3年3月29日条には改元の発議を知らせる使者
が信長と義昭の元に派遣されていることが記されている。
だが、「元亀」改元を奏請したとされている足利義昭は
これに反発して改元にかかる経費の拠出を拒み(『お湯
殿上日記』元亀3年4月20日条)、9月に信長が義昭を非難
するために作成した『異見十七ヶ条』でも批判の対象とさ
れている。また、年号勘文はすでに元亀3年11月11日付で
作成されている。なお、改元時に朝廷では信長に勘文を見
せてその意向に応じて元号を「天正」と定めており、信長
が武家政権の長として改元に容喙した事実は織田政権の
開始を象徴する出来事であった。反面、改元の実施日や
元号の実質的な選考作業と言える勘文の作成に信長が関与
した事実は確認できず、あくまでも朝廷の意向を尊重する
という形式を取った改元であった。
長谷川
◆注目すべきは天正年号
年号勘文が元亀3年11月11日付で
作成された事これは11の文化や慣例を考察する上で重要
◆長谷川 天正12年
『ウッイキぺデイア』から天正を引用すると
◆
信雄の本領である美濃、北伊勢の諸城を次々と攻略して
ゆき、危機感を覚えた信雄は11月11日、秀吉と講和し、
家康も次男を人質に提出して降伏した[25]。こうして秀吉
は、軍事的にも身分的にも織田信雄を超えることで、織田
政権の一角から、豊臣政権の長へと君臨することになった
この戦いの最中の10月15日、秀吉は従五位下左近衛権少将
に叙位任官された。秀吉が官位を得たのは筑前守就任(天正
3年(1575年)7月3日)が最初とされているが、この左近衛
権少将が初めての叙位任官とする説もある。 秀吉は官職でも
、主家の織田家を順次凌駕することになり、信雄との和議後
は自らは「羽柴」の苗字を使用しなくなった]。
信雄の本領である美濃、北伊勢の諸城を次々と攻略してゆき、
危機感を覚えた信雄は11月11日、秀吉と講和し、家康も次男
を人質に提出して降伏した。こうして秀吉は、軍事的にも身
分的にも織田信雄を超えることで、織田政権の一角から、
豊臣政権の長へと君臨することになった。この戦いの最中の
10月15日、秀吉は従五位下左近衛権少将に叙位任官された。
秀吉が官位を得たのは筑前守就任(天正3年(1575年)7月3日)
が最初とされているが、この左近衛権少将が初めての叙位任官
とする説もある。 秀吉は官職でも、主家の織田家を順次凌駕
することになり、信雄との和議後は自らは「羽柴」の苗字を使用
しなくなった。
長谷川
秀吉と織田信雄の和議
天正12年「1584年」
危機感を覚えた信雄は11月11日、秀吉と講和した是も注目
◆長谷川
天正11年11月11日に何が起こる予定だったのか?
天正11年4月羽柴秀吉は越前の柴田勝家に賤ケ岳
7本槍の活躍により天下への道を更に邁進させた。
しかし歴史にもしは許されないないのだが!賤
ケ岳合戦に佐久間が暴走せず柴田が越前近江国境
の柳ケ瀬「玄蕃尾城」を死守し柴田等の北陸方面
軍団が畿内に進駐し柴田が京都を占拠した場合は
柴田は安芸の足利義昭将軍に書簡を送って上洛を
現実に促しているので柴田方から見れば秀吉政権
を畿内から駆逐し天正11年11月11日に何がしかの
北陸から進駐した柴田軍と旧織田軍団による、天下
の再編を画策したのではないだろうか?天正11年3
月柴田勝家が北近江柳ケ瀬に着陣すると都の公家達
は一斉に柴田勝家に書簡を送って自己の安泰を画策
を初めている。
◆長谷川
2020年6月20日に実施される予定の玄蕃尾城の見学
や規模自体が日本史に精通する人々の常識や想定を
遥かに凌駕する壮大な戦国の謎と言える巨大城跡だ!
勝者秀吉の陣城小さく敗者柴田勝家の陣城が優勢だ!
そうこの玄蕃尾城とは本丸も含めて土塁に囲まれた
曲輪が山岳に7郭存在するつまり本丸から七之丸まで
あるこれまた7の文化が潜在する一級戦国城郭遺跡だ!
邪馬台国は現実には我々は目にする事は不可能かも?
しかしこの国定指定遺跡玄蕃尾城は遺構が完璧に残る
戦国最大の土塁と巨大な空堀からなる夢の城址なのだ。
生々しく、おどろおどろしい巨大城址に仰天驚愕する!
▼2020年城郭フオーラム予定チラシ
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