城郭 長谷川博美 基本記録

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戦国に正月など無かった!? 隠された 近江と越前の戦国騒乱の現実

2022-01-10 15:01:08 | 歴史講座
戦国に正月など無かった!?
隠された 近江と越前の戦国騒乱の現実
令和4年1月度の歴史城郭講演の御案内
 
◆質問者
長谷川先生長浜市西浅井地域の城を10城も20城
も知る必要は全くないと思いますが?
 
◆対談者
良く考えてちょうだい?冠婚葬祭に行く時?
珠数が
●●●●●●●●●●●と繫がっているから珠数です。
ネックレスが
〇〇〇〇〇と繫がってるからネックスレス!
城跡だって□1城□1城勉強しても2城だけ!
城郭群だって□■□□■□□■□□■□□■と連携して
群れをなしているから城郭群グループです!
城や歴史を語る時のネックは連携した城跡!
 
◆一般様
どなたか知りませんが「対談者」様素晴らしい
比喩です。数珠もネックレスもベルトや紐さえ
も繫がっているからこそ役にたつ道理ですわね!
珠数一個知っていてもネックレスの珠一個知っ
ても珠数やネックレスの本質の連結連携は語れ
ません。と言う事は城一カ所知っててもその町
の全体の歴史は解れないという事を悟りました。
 
◆長谷川
戦国の城とは一城だけで機能しないのです。
戦国史を語る上で考える上で非常に重要な
事とは城郭群を認識する事が重要な事です。
 
例えば
 
〇天正2年(1574年)2月、武田勝頼が東美濃に
 侵攻し、先ず高山城、苗木城を落とし、
 更に支城16箇所を全て落とす。
 
とあります。高山城、苗木城だけでなく16城が
肝要であり当時も現代城郭研究においても基本
中の基本グルーブとしての城郭群を考察する事。
 
◆長谷川
室町や戦国の領主とは「一円支配」と言って
城郭をチエーン店状に統率支配していた訳で
1城だけ観光に行ってもそれはやはり観光や
行楽範疇と解釈されます。どの様に室町戦国
の領主達は城郭チエーン店つまり一円支配を
していてたか?現代のコンビニ便利店も交通
状況を事前に市場調査して店舗オナーに任せ
ています。大名は各地集落の背後にある城砦
をグループ傘下つまり支配下におく事により
広域領主の国人へそして大名へと成長して行
た社会状況があります。中世の城郭分布なら
当時の街道の交通史を無視して城郭群や地方
史を軽率に語る事はできない交通史こそ重要。

◆質問者
長谷川先生の歴史講演の面白さや深さは?
 
◆体験者
知らない事に気付く現実的実証歴史観です!
浅井備前守饗応記席次で熊谷氏は京極氏に
次ぐ実質№2!守護職に次ぐ№2の地頭職よ!
先ずその事自体に気付く事が歴史研究の基本!
 
◆対談者
従って熊谷氏は地頭職に相応しい多数の城郭や
分布数を北近江に保持した講演を令和4年1月
15日長浜臨湖で午後13時から熊谷氏の城郭群
約20カ所以上の分布を講演される訳ですよ!
 
講演参加費 500円 時間13時~14時30分
講演予約先 ウッデイパル余呉城郭係り
令和4年1月15日長浜臨湖会館講演予約
0749-86-4145 場所 長浜臨湖会館
 
◆長谷川
一般に越前と近江は朝倉と浅井の外交関係
で戦闘や合戦が無かったと勘違いされいる。
越前敦賀郡と近江浅井郡は熊谷平次郎率い
る三千騎が疋田「引壇城」正月に突然攻め
よせて城の大蔵大門を焼き払い3日間攻防
戦を展開している。疋田には小谷城と同じ
地名「桜の馬場」「小丸」なの小谷城と同
じ地名が残っており「親小谷浅井派」だと
言えます。物流の見地からみると東海関ヶ
原へと続く北国道の中継地点こそ小谷町と
小谷城であった訳で、これ北国脇往還国道
や国道365沿い地理の中世陸送物流勢力です。
 
弘治元年(1555年)近江国塩津の熊谷平次郎が
三千騎を率いて疋檀城を急襲した。疋檀城主
疋田景継は城を明けて留守であったが急報を
受けて引き返し、兵を集めて城へ入ろうとし
たが大手は熊谷軍によって包囲されていたの
で、搦手より入城して戦った。攻防の最中に
大晦日となり、熊谷軍は正月三日までの休戦
を申し込み熊谷軍は兵を引いた。しかし、翌
日熊谷軍は軍を引き返して疋檀城を急襲し、
休戦となって安堵していた城内は防戦もまま
ならず東曲輪は焼き払われた。
 
★塩止めの概念
塩津谷や今西、南浜の熊谷勢が一方的に
塩山城「引壇城」から小谷方面に独占的
に中世陸送物流の流れを湖北東部の陸路
の中継点「小谷町」に独占されたら塩津
谷や今西、南浜の熊谷勢は海産物を疋田
でストップされ死活問題になってしまう
従って熊谷勢は正月でも塩山城こと越前
疋田の城に塩止めの解消を直訴したと思
われます。戦争の発端は物流の利害関係
や経済関係に端を発していると言えます。
★塩止め=海産物全く内陸へと運べない。
 
◆反論者
塩津熊谷氏が福井県疋田に3000人もの兵員
を送る事は無理でしょう。まして浅井氏か
ら熊谷氏は睨まれてしまいますよ!塩津の
熊谷など3000もの兵員送る事は絶対無理!
 
◆対談者
は~あ~いつもの如く依存的概念や知識に
固執した固定概念ですよね。硬い硬い石頭
『浅井備前守饗応記』では熊谷氏は席次№
3浅井亮政は台頭するも北近江武家社会の
席次は未だに№13と言う事を認識する事!
日本の物流大手企業「日本通運」の原型の
結社は塩津と大津を結ぶ琵琶湖水運の源の
塩津に誕生している。塩津港遺跡は日本海
側と琵琶湖京師を結節する重要交通遺跡で
すよ。日本の古代交通の動脈を扼する塩津
歴史に驚愕するが中世に塩津谷に割拠した
「塩津勢」の現実や城館分布を知らなけれ
ば塩津地域が浅井郡⇒伊香郡⇒長浜市へと
変遷をした歴然たる浅井郡の歴史しいては
正確な長浜の中世戦国史歴史は語れません!
 
◆長谷川
疋田攻めをした熊谷勢3000人は湖北の三熊
谷と呼ばれる塩津、今西、南浜、3熊谷です。
疋田城から見れば3部隊が来襲したと言う事。
つまり、塩津街道や琵琶湖北岸の水運交通網
に割拠する人々、浅井氏が内陸なら熊谷氏は
琵琶湖岸勢力と言えます。塩津の殿山遺跡に
は3カ所の峯に巨大な布陣遺構が残っています。
この件も今後の研究対象として継続して欲しい。
 
◆一般者
そんな現実塩津の人々は全くしらない訳です!
 
◆対談者
それは仕方のない事ですよ。長浜市余呉町に
は賤ヶ岳合戦『余呉の庄の戦い』の城塞が約
50カ所も残っていますが、これに興味を抱く
人は余呉町内には全く居ない50カ所の陣城跡
なんて地元の人にとり400年前の夢物語です。
何故余呉の城郭遺跡を全国から見学に来られ
ているか?全く根本的に理解しておられない。
 
◆対談者
その町に城跡が凸ー凸ー凸ー凸―凸ー凸と現存
する。しかしその町の郷土史家は凸ー凸ー凸と
しか解説しない知らないガイドさんは凸ー〇ー凸
と城でない〇を時にピクニック人に城と解説する。
私は城でない所を案内されると気分が悪くなる人。
勿論ガイドさんとは基本的に城郭遺構は勉強され
てない郷土史家さんも基本的に現実の城郭遺構を
見学し認識されていません。しかし町のみんなは
郷土史家の「お話し」を尊重する。旅行者様は皆
ガイドさんの解説に聞く耳を立てる自分自身が城
跡を自分で確認認識できるようななったら城見学
の仕方城郭遺構の見かたを習得した事になります。
 
◆長谷川
するどい指摘をされますね。対談者様の御話を
図式化すると以下の様な社会構成になってます。
 
A凸ー凸ー凸ー凸―凸ー凸 城郭遺跡認識力ある人
遺跡視認現地確認型
 
B凸ー凸ー凸       既成文字知識のある人 
郷土史文字型
 
C凸ー〇ー凸        城郭認識力が弱い人 
観光行楽志向型
 
D〇         全く歴史城郭に興味ない人 
一般型
 
◆質問者
羽柴秀吉は小谷城と小谷町を長浜へと何故?
移動移住させたのですか?陸運を無視した?
 
◆長谷川
敦賀→疋田「塩山城」→塩津→今西→今浜
の水運のルートを信長や秀吉は採用したの
です。今浜を長浜としてスタートさせたの
は羽柴秀吉自身なのです。キッチリと塩の
道を信長秀吉はロジステックな物流体制の
刷新を画策してた訳で織田は長浜から佐和
山へと更に安土への水路を確保して行った。
一方琵琶湖水運管理は明智光秀の坂本城を
 
羽柴秀吉が天下を取ると秀吉は琵琶湖水運
管理を芦浦観音寺に任せ、京極高次に大津
城を配置し、佐和山城には石田三成を配置
塩の集積地越前敦賀と若狭、越前嶺南方面
敦賀城に股肱の臣「大谷吉継」を配置しま
す。また越前疋田は大谷吉継が代官を配置
して管理しております。秀吉自体、自らの
側室「浅井氏/淀殿」に水運利便な淀城の女
主とし淀殿はやがて後にに秀頼を出産する。
秀吉自身最初水運利便な指月伏見城を築城
致します。水運利便な隠居屋敷としてです。
 
◆塩津大浦の事
慶長5年関ヶ原の合戦では京極高次は石田
方つまり豊臣方から離脱して塩津から大津
へと琵琶湖水運を利用して大津城に籠城し
て徳川方に味方致します。如何に塩津大浦
海津の琵琶湖水運がつまり西浅井の塩津の
歴史的重要性を認識するかにより歴史解釈
は変わります。塩津谷の分散する塩津の城
の分布を知る事は歴史街道「塩津」を再認
する絶好の機会になると私は考えています。
強いては人口7000人も減少している過疎が
進む長浜市にとり塩津街道の城郭群宣伝は
通過する西浅井から立ち止る観光商業地域
へのシフトチエンジの発想は非常に重要!
 

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1 コメント

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Unknown (体験者)
2022-01-04 13:26:40
塩津の城跡を確実に長谷川先生の案内で廻った人々には多数の現実の城郭遺跡見学は生々しく現実体験として
今も記憶に残ります。ようするに城は文字ではなく現地を知る事から始まっています。
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