城郭 長谷川博美 基本記録

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日出城の城郭ビイスタ

2022-12-09 18:01:17 | 九州の城 ビイスタ工法

◆一般者

長谷川先生の城郭ビイスタ論

と動画支持者が予想外に着実

に伸びており何故なのですか?

 

◆対談者

そりやそうです!日本全国の

我が町の城跡にビイスタ存在

するか?全国の町に住む人々

は我が町の城にビイスタ工法

が有れば満足されます一流の

城には一流のビイスタ工法が

存在する事への郷土愛が強い

逆に我が町の城跡にビイスタ

がなければ三流の駄城です!

 

◆長谷川

大分県速見郡日出町「ひじ」に

天下の名物「城下かれい」と言

れるものは有名な特産品です。

その町こそがつまり日出町です。

 

◆質問者

日出城は織豊系城郭なのですか?

◆以下ウイッキペデイアを引用

 

「現在残る日出城は1601年から1602年慶長7年)

8月に日出藩の初代藩主木下延俊が、義兄であった

細川忠興の支援を受けて築城した。細川忠興が縄張

りを行い、木下氏家臣の穴太理右衛門(「穴太衆

参照)が野良積みの技法で石垣を構築した。

▼日出城古図

◆質問者

日出城はビイスタあります?

日出城古図を見ても私には

全くサッパリ解らないです!

特に本丸など奇妙な形です!

私など50年間の図見て全く

ビイスタ工法など解らない!

 

◆一般者

城郭ビイスタ論って一体何?

 

◆反論者

城郭ビイスタ論など盲説だ

ビイスタ工法など絶対無い

動画など絶対に見ては駄目!

 

◆冷静なビイスタ論擁護者

日出城とは

①縄張=細川忠興

坂本城主明智光秀の娘婿」

②主体=木下俊延

「羽柴秀吉の外戚系列」

③石垣=穴太理右衛門

「近江志賀郡の穴太衆」

と言う3枚看板の城郭が

大分県速見郡日出町の

日出城でしよう下手な

縄張の城であろうはず

がない!絶対傑作城郭!

 

◆質問者

長谷川先生!是非教示を!

 

◆長谷川

 私は日本国で最も無名で

人気が全くないブログ読者

も0に近い素浪人の私如き

が日出城を解るハズ無い!

 

◆質問者

長谷川先生!是非教示を!

 

◆長谷川

ふふふふ、、、、それでは

主郭部のビイスタ工法から

これは重複型ビイスタ工法

で築城縄張されております。

◆みんな

すげえ!長谷川先生は城の縄張

を簡単に看破され衝撃を受ける

◆対談者

それは本物だからですよ本物!

 

◆一般者

さすがだ!

①細川忠興

②木下俊延

③穴太石工

日本で一番無名で人気0

と言える長谷川先生です!

 

◆みんな

変な賛辞は困ります!先生

は素朴に犬走、土塁、堀切

竪堀、虎口、曲輪など城郭

の基本事項を初心心者の人

に解説されるベーシックな

城郭遺跡見学の基礎講師!

地味地味だけど本物先生!

◆質問者

日出城全体の位置決めを

する役目の測量起点は?

◆長谷川

城郭測量指南書にもある

W複合型「Wビイスタ」の

の位置決めでしょうかね?

当該の日出城にもチャント

「Wビイスタ」が存在します。

▼日出城 「Wビイスタ」工法

◆みんな

ピタリト適合する脅威的理論

スゴイ!凄すぎる!この投稿

は新しい令和の新城郭研究論!

◆長谷川

過分の賛辞は、お控え下さい!

私の人気や知名度は全く0です。

12月1月2月3月の見学参加者が

無い場合には 講師を当然降板

さされる厳しい現実が存在する

私のような無名研究家とは悲惨

また普段はビイスタ解説などは

めったにする事も稀な事ですよ

日出城は中央ビイスタ型も存在

致します。城門への導入経路は

測量測量起点で決定されます。

◆みんな

ずごいよ!こんな築城術の裏側

を教えてくれる城郭の先生など

日本国には存在しないと思う!

絵図面をそろえてもそれを解説

する先生は日本広しと言えども

長谷川先生だけです。だから私

達は長谷川先生の山城見学会や

講座があると参加するのです!

 

◆有識学識経験者

都市計画ランドスケープ論

城下城内の設計理論分析や

解説において我々学究者の

認識を遥かに凌駕した非凡

な遺跡全体俯瞰能力と平面

分析能力を持っておられる。

これ驚きよりも希少学術性。

▲日出城 クサビ型ビイスタ工法

◆長谷川

様々な測量起点ビイスタ工法

を駆使して日出城のグランド

プラン用意周到に計画してる。

◆一般者

これだけの城郭幾何学理論を

持つ希代の城郭研究家が埋没

して全く無名と言う事は残念!

 

 

◆以下ウイッキペデイアを引用

木下 延俊(きのした のぶとし)は、

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将

大名茶人豊後国日出藩初代藩主。初名は勝忠

[1]とも云う。官位は従五位下右衛門大夫で、通称

も右衛門大夫。

略歴[編集]

天正5年(1577年)、木下家定の三男として尾張国

で生まれた。家定は豊臣秀吉の正室高台院北政所

おね)の兄で、杉原定利の子。秀吉に召し抱えられ

若狭国小浜領主となり、後には備中足守藩主にな

った。木下姓を称するが、秀吉と血のつながりはな

い。延俊の母は杉原家次の娘、雲照院(おあこ)で、

同母兄弟に木下利房小早川秀秋がいる。歌人木下

長嘯子として知られる勝俊は異母兄で、ほかの兄弟

も異母兄弟とする系図がある[15]

正室は細川藤孝(幽斎)の娘・加賀[5][16]

延俊は高台院が最も寵愛した甥であった[17]。父や

兄弟らと同じく秀吉に仕え、天正16年(1588年

11月[3]、12歳の時に摂津国駒林(駒ヶ林)で500石

の知行を与えられた。長兄2人は若狭国の領主であ

ったため、父が大坂城の留守居に入る場合には、

家定が城主を務める姫路城の城代を任されていた。


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