淋しさのつれずれに独りで「美濃国 鷺山城散歩」
2019/2/28
※現在の心境
人間とは孤独や孤立した境遇になにると、本当に淋しいものだ独りで山城を
散歩すると遠くにいる家族の事を思い出して、自然と涙が流れ落ちるものだ。
歴史城郭の講師の仕事も無く家族との会話も少なく、友達もなく、会話相手の
いない今の私の境遇だが独り落ち込んでも詮方なしいと思い、私の好きな隣国
美濃の岐阜鷺山へと独りで出かけた。
鷺山から見上げる岐阜城の遠景は、雄々しく山岳と巌が聳えたち、その碧き陰影
と山肌の深さが冴え、堂々たる戦国の遠き昔を彷彿とせて物思いに更けるばかりだ。
※鷺山城と大河ドラマで司馬遼太郎さん原作「国取物語」の世界を回想する。
NHKの大河ドラマの思い出としては美濃の絵師大名の飄々たる浮世離れした
風貌土岐頼芸役の好演や彼が筆を運んだ、俗に言う「土岐鷹」を思いだした。
大河ドラマでは再三鷺山城や斉藤道三や頼芸の美貌の妾の三芳野が登場し鷺山は
私にとり雅な数寄や文人墨客が好む境地の世界、つまり詫びサビを楽しむ情緒的
な場所としての鷺山城の姿が私にとり鷺山城の印象やイメージの世界だ。簡潔に
言うならば司馬遼太郎さんの文学「物語の世界だ」この鷺山城とは往昔はさぞや
稲葉山の眺望や美しい朝夕の長良川河畔の川船も含めて景勝の地であった事だろ。
※土岐頼芸の繊細な筆調
絵画「土岐鷹」を見る限り頼芸とは繊細な芸術家タイプの人格または絵師に近い
人物ではなかったのか?また美濃一国の国政を取り仕切るほど乱世の武将として
台頭した斉藤道三の晩年の隠居城たる鷺山城が駄作の城だったと私には思えなか
った。私を知る人も今では誰もいないのが現実だが鷺山城は以前も訪れた城址
だった。遺構として堀切や竪堀が残っいた記憶がある。今一度私は鷺山城址に
孤独に旅行したい心境となった。
※縄張図や遺跡図ではない今回の私の図面
私は縄張図や遺跡図は現地を計測して初めて縄張図や遺跡図と言えると考えて
いる。従って今回取り上げる私の図面は印象やイメージ図であり正確で冷静で学術
的な根拠や意味合いがない事をお断りする。従ってこの図面に関しての論争や討論
や質問は一切謹んでお断りする。一介の凡人の旅行記の挿絵として御覧頂きたい。
※鷺山山頂部の印象記録
山頂は標高、海抜は67.7mと低いが美濃の平野部に独立する丘陵は意外にも険阻で土岐氏
や後斉藤氏の隠居城としての要害性には優れている。瀟洒で豪華な山麓居館の背後を守る
古い履歴を誇る古城の雰囲気をよく伝えている。山頂の要害と山麓の今はなき居館を一組
と考えた方が良いかもしれない。山頂部は、なだらかに公園化されており、なだらかな
主郭群が細長く狭くA、B、Cと郭の痕跡を認める。周囲には犬走が配され急斜面を伴って
いる。また主郭部の東斜面にはD、E、F、G、の竪堀が残っている。この城址は堀切
を開削して主郭部を守っている。主郭の西側斜面には123456と大小の連続竪堀群が残って
いて戦国城郭の要害性を生々しく現代に伝えている。かって白山神社方面に繫がっていた
道の斜面にもH1H2H3の竪堀の痕跡が残る。堀切を北に超えてなだらかにN1N2N3N4
などのゆるい郭の痕跡がかすかに残っている。小規模ながら小櫓の土壇は●A●B●Cにその
痕跡がかすかに残っている。またE1E2E3等の郭の痕跡や竪堀NあNいなどもなだらかに
残っている城址は公園化されており犬走遺構なども各所観察出来るが城郭の石垣や切岸を
観察する事に惹かれる人には鷺山城跡は何も無いと感じられるかもしれない。
※晩年の斉藤道三の武将としての力量の衰えと長井道利の暗躍
晩年に斉藤道三は娘婿の織田信長と会見した時見事に信長の胆力や発想力に圧倒
される場面が『信長公記』に記されている。また隠居して息子の斉藤義龍との戦い
で戦死して往年の輝きが無い。しかし道三の庶子とも実弟とも言われる長井道利
は『信長公記』始め様々な当時の文献にも登場しあの武田信玄の書状にも登場す
る美濃の戦国史における、真の実力者として今後は研究されるべき人物であろう。
※後年道三の娘で信長の正室は鷺山殿と呼ばれた。
2019/2/28
※現在の心境
人間とは孤独や孤立した境遇になにると、本当に淋しいものだ独りで山城を
散歩すると遠くにいる家族の事を思い出して、自然と涙が流れ落ちるものだ。
歴史城郭の講師の仕事も無く家族との会話も少なく、友達もなく、会話相手の
いない今の私の境遇だが独り落ち込んでも詮方なしいと思い、私の好きな隣国
美濃の岐阜鷺山へと独りで出かけた。
鷺山から見上げる岐阜城の遠景は、雄々しく山岳と巌が聳えたち、その碧き陰影
と山肌の深さが冴え、堂々たる戦国の遠き昔を彷彿とせて物思いに更けるばかりだ。
※鷺山城と大河ドラマで司馬遼太郎さん原作「国取物語」の世界を回想する。
NHKの大河ドラマの思い出としては美濃の絵師大名の飄々たる浮世離れした
風貌土岐頼芸役の好演や彼が筆を運んだ、俗に言う「土岐鷹」を思いだした。
大河ドラマでは再三鷺山城や斉藤道三や頼芸の美貌の妾の三芳野が登場し鷺山は
私にとり雅な数寄や文人墨客が好む境地の世界、つまり詫びサビを楽しむ情緒的
な場所としての鷺山城の姿が私にとり鷺山城の印象やイメージの世界だ。簡潔に
言うならば司馬遼太郎さんの文学「物語の世界だ」この鷺山城とは往昔はさぞや
稲葉山の眺望や美しい朝夕の長良川河畔の川船も含めて景勝の地であった事だろ。
※土岐頼芸の繊細な筆調
絵画「土岐鷹」を見る限り頼芸とは繊細な芸術家タイプの人格または絵師に近い
人物ではなかったのか?また美濃一国の国政を取り仕切るほど乱世の武将として
台頭した斉藤道三の晩年の隠居城たる鷺山城が駄作の城だったと私には思えなか
った。私を知る人も今では誰もいないのが現実だが鷺山城は以前も訪れた城址
だった。遺構として堀切や竪堀が残っいた記憶がある。今一度私は鷺山城址に
孤独に旅行したい心境となった。
※縄張図や遺跡図ではない今回の私の図面
私は縄張図や遺跡図は現地を計測して初めて縄張図や遺跡図と言えると考えて
いる。従って今回取り上げる私の図面は印象やイメージ図であり正確で冷静で学術
的な根拠や意味合いがない事をお断りする。従ってこの図面に関しての論争や討論
や質問は一切謹んでお断りする。一介の凡人の旅行記の挿絵として御覧頂きたい。
※鷺山山頂部の印象記録
山頂は標高、海抜は67.7mと低いが美濃の平野部に独立する丘陵は意外にも険阻で土岐氏
や後斉藤氏の隠居城としての要害性には優れている。瀟洒で豪華な山麓居館の背後を守る
古い履歴を誇る古城の雰囲気をよく伝えている。山頂の要害と山麓の今はなき居館を一組
と考えた方が良いかもしれない。山頂部は、なだらかに公園化されており、なだらかな
主郭群が細長く狭くA、B、Cと郭の痕跡を認める。周囲には犬走が配され急斜面を伴って
いる。また主郭部の東斜面にはD、E、F、G、の竪堀が残っている。この城址は堀切
を開削して主郭部を守っている。主郭の西側斜面には123456と大小の連続竪堀群が残って
いて戦国城郭の要害性を生々しく現代に伝えている。かって白山神社方面に繫がっていた
道の斜面にもH1H2H3の竪堀の痕跡が残る。堀切を北に超えてなだらかにN1N2N3N4
などのゆるい郭の痕跡がかすかに残っている。小規模ながら小櫓の土壇は●A●B●Cにその
痕跡がかすかに残っている。またE1E2E3等の郭の痕跡や竪堀NあNいなどもなだらかに
残っている城址は公園化されており犬走遺構なども各所観察出来るが城郭の石垣や切岸を
観察する事に惹かれる人には鷺山城跡は何も無いと感じられるかもしれない。
※晩年の斉藤道三の武将としての力量の衰えと長井道利の暗躍
晩年に斉藤道三は娘婿の織田信長と会見した時見事に信長の胆力や発想力に圧倒
される場面が『信長公記』に記されている。また隠居して息子の斉藤義龍との戦い
で戦死して往年の輝きが無い。しかし道三の庶子とも実弟とも言われる長井道利
は『信長公記』始め様々な当時の文献にも登場しあの武田信玄の書状にも登場す
る美濃の戦国史における、真の実力者として今後は研究されるべき人物であろう。
※後年道三の娘で信長の正室は鷺山殿と呼ばれた。
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