城郭 長谷川博美 基本記録

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2600年前の日本についての記録 倭国の王とはだれなのか?

2020-07-27 13:48:34 | 古代史
2600年前の日本についての記録 倭国の王とはだれなのか?

日本の歴史が古い事は良く知られている
が大和朝廷が成立する以前の日本の女王
は『魏志倭人伝』の記録する、卑弥呼が
有名だが『魏志倭人伝』よりも更に古い
記録『大蔵経』『一切経』には紀元前八
百年も前の倭国「日本」が記録されてい
る。
『一切経』の中の「倭国、発音はウワと
言う。東海の海のなかにある小さな国で
ある。身体に朱色の丹を塗っている。」
とある。後の時代の古墳時代の遺跡から
発掘されてる人物埴輪にもその顔に朱丹を
塗った例が多く古墳石室内からも、朱丹が
出土している。古代の日本の習俗を想像す
るとたいへんロマンに溢れていると言える。

『一切経』の中の倭国の原文は
「倭国(烏波反郭注山海経云倭国在帯方東大海内
以女為俗無針工以丹朱塗身也説文亦東海中国也
従人委声)」と言う記録である。

現代から約2600年も前に既に日本「倭国」が
存在した事に驚きを隠せない。さてその頃の
倭国の王は、どの様な氏族や一族であったの
であろうか?もしかして?その王族の血統的
な子孫は御近所に住む平凡な「おっちやん」
が2800年も前から続く倭国王の子孫であると
想像すると何故か微笑ましく身近に感じられ
る事であろう。日本の歴史は間違いなく何万
年も前から継続している事は唯物論的考古学
遺物が証明している。民主主義日本国の主役
は言うまでもなく我々日本に住む人々である。
コメント (6)
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前方後円墳の記録と祀りの記述

2020-07-27 01:29:32 | 民俗学

◆『魏志倭人伝』
『魏志倭人伝』に、189年に卑弥呼が女王となり、
248年に没し径100歩の塚が建造されたとある。
263年に、卑弥呼の宗女である壱与が即位とある。

◆『晋書』
『晋書』に、265年には、司馬炎が晋を建国して、
倭の女王(壱与と考えられている。)の使者が王朝
の交代の式典に参加した事がに記されている。

◆『晋書』
『晋書』に、翌266年、倭人『日本人」が来て、
円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合
わせたと記述され、前方後円墳の起源を記したもの
と解されている。倭人の墳墓の一形態とする前方
後円墳が266年には既に築造されている事が文献
から推測される。二至の祀りとは夏至と冬至の祭り。

◆倭人「当時の日本人は暦を持たなかった事の考察
『魏志倭人伝』を読むと当時の倭人は暦がなく一年
に2回の祭を実施していた事が解る一年を前期後期
とし一年を二年と計算していた可能性もあり大和の
初期の大王の年齢も異様な高年齢で記されている事
は倭人の暦が中国と異なっていたのではないのか?
倭人が一年に二期の祭祀を実施、前方部と後円部で
それぞれ異なる異なる季節祭祀を実施していたもの
か?そうすると、古くから方墳を中心に営んでいた
日本の地方豪族は中国秦の始皇帝墓の如く中国暦を
用いていた可能性もあるのではないだろうか?とも
かく今も日本人の習慣に残る年二回の祭りや半期毎
の集計感覚や上半期や下半期の感覚は遠くその根源
ルーツを遡ると古代倭人の一年を二期に分割する習
慣にまで遡れる可能性も考察してみたいと時に思う。
確かに『魏志倭人伝』を読むと倭国は二毛作の土地
だと記している事に留意したい現代でも二毛作地域
は限定されており邪馬台国の所在地を幻想的に想像
し日本人はあれこれと推測して楽しんでいる事にも
留意したい。卑弥呼の時代に日蝕が起きた事も九州
地域中心という天文学的科学的な計算が既に出され
ている。卑弥呼は天候の異変「日蝕」の発生により
巫女として信頼が失墜し諸侯からその責任を問われ
古代祭祀政権の斎主の座から滑り落ちて引退したと
解釈する学者もいる。卑弥呼が諸侯により殺害され
たのか?連合国家の斎主としての地位を無くし剥奪
されたのか??未だに明らかには、なってはいない。

◆余談
本能寺の変の前日も日蝕が有った!
日本では天照大御神を太陽神として日蝕を連想させ
る天の岩戸隠れ神話が残されている。卑弥呼ヒミコ
と関連づける学者も、存在した。弥生の九州地方の
日蝕は皆既日食であったが近畿地方ではこの弥生の
日蝕が欠けて見えた事になっている。『魏志倭人伝』
には邪馬台国の斎主女王「卑弥呼/ヒミコ」とは別の
王様 、狗奴国の男王卑弥弓呼(一般的には「ひみここ、
ひみくこ」と読む「ひこみこ」(彦御子)とする説も
がある)がおり、この男王の住む地域では日蝕が弓の
形状に見えた可能性を卑弥弓呼と表現したのだろうか?
とすると 狗奴国の男王卑弥弓呼は現代の西日本と言う
事になってしまう?倭人伝では狗奴国の官を狗古智卑狗
(一般的には「くこちひこ、ここちひこ」と読むが「くく
ちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)とする説
もある)と言った。邪馬台国の女王卑弥呼と男王卑弥弓呼は
は「素より和せず」と元来不仲の国だったがこの戦いの最中
に卑弥呼が死去した云々と、古代幻想疑問符が?延々と続く

◆本能寺の変の前日も日蝕が有った!
三島暦によると天正10年6月1日に日蝕があった事が
判明する。翌日天正10年6月2日に丹波から明智光秀
は主君織田信長を京都本能寺を突然包囲して死滅さ
せる。これは当時上様である信長を隠した事になる
古来日本では天皇の死を「お隠れになった」御崩御
と表現している。

この本能寺の変を起した人物が惟任日向守光秀であ
る奇妙な事に明智日向守の官途を名乗る人物が日蝕
の翌日に織田信長を打った事になる。信長の信奉す
る三島暦と京都の内裏暦には違いがあり信長は日本
の暦も三島暦に変更するよう内裏に進言していたと
言う。年号も元亀ではなく天正へ改元させたのも彼
織田信長の奏上によるものである。明智は日蝕とも
関連して織田信長を討滅したのか?疑問符が残る!
彼の発句光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな」
の発句の意味は極めて非常に深いと私は思っている!
「ときは」
時とも 時節とも
土岐とも、明智=土岐氏
常磐「ときは/皇室」を意味する言葉
斉場「ときば/神占いをする斎場」
とも複数に重ねた忌言葉が重層的に潜在しているか?

◆近江弥生の伊勢遺跡に焼床が発見される。
大和朝廷が成立する以前より倭国には100余国が
存在した事が『魏志倭人伝』に記されている。
斉場「ときば/神占いをする斎場」
常磐「ときは/皇室」とすると何と!近江弥生の
伊勢遺跡には床を焼いて宮殿にタイルを施した
遺構が発見されている。これは倭王の宮殿の跡
のひとつであろう。

◆神代は縄をなって占いや暦を記録していた。
月末を晦「つごもり」とも言う。または晦日
「みそか」とも言う。30本の縄を床でなう事
つまり「三十/みそなう」とも言う現代でも30
代へ突入すると「三十路/みそじ」と表現する
一年の最終月が勿論、大晦日「おおみそか」で
ある。古来朝廷の政治は夜に作られたと言う。
縄なう占いで政治を決定していた。縄は土間で
本来綯う「なう」のが日本人の正式作業である。
近江弥生の遺跡遺跡には床にタイルが施されて
いる。これはある意味、常磐「ときは/斎場」で
あろう。日本人にとり縄文時代より縄は大切な
道具であり神道の注連縄「しめなわ」も縄文化
である。さて現代の政治談議でも明日の日本の
の政治を「占う」などの言葉が使われ「なう」
つまり縄を作る事が日本人の基本作業であった
事が暗喩的にわかる。会社の新入社員への訓示
でも我社の未来を担う「になう」諸君と社長が
挨拶するが、荷綯う「になう」荷物を結び付ける
縄を作る事が「なう」であり政治の行く末も占い
「うらなう」でもあろう?日本人は倭人の子孫で
あり現代の日常においても古代の倭人の縄文化を
潜在的無意識的継承しているのではないだろうか?

◆前方後円墳の分布
倭人「日本人」の墳墓の特徴の一形態で前方後円墳
は日本の東北から韓半島の南部にも分布している。

◆昼飯大塚古墳
昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)は、岐阜県
大垣市昼飯町にある古墳。形状は前方後円墳。不破
古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されて
いる。 岐阜県では最大規模の古墳で[注 1]、4世紀末
(古墳時代中期初頭)頃の築造と推定される。 


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