針地名 針の国 連鎖思考と比較研
究で楽しく脳内活性化を!
はじめに
様々な時代の地名や歴史を連鎖的に
回想する事により歴史の中の時空の中
を楽しく自由に旅する事は高齢者社会
にとり頭脳を活性化する貴重な機会や
チャンスであると私は思う。
歴史の中の一時代を研究考察する事は
正論であるが、時に人は大鳥になった
様な気分で、様々な歴史事象の共通根
を鳥瞰つまり大観して歴史の普遍性や
法則を体得する事は大切な事である
と私は考えている。テスト勉強で記
憶した歴史は一晩で忘れ去ってしまう
。しかしユニークな先生が少し脱線
した歴史的逸話を挿入された内容
こそ人間は鮮明に記憶しているもの
である。その時、学生さんは歴史を
苦学したのではなく楽学習得した事
になる。高齢者になると今日学んだ
事は即刻忘れている。大脳科学では
新知記憶を高齢者は記憶しにくくな
るとも言う。
従って高齢者は昔学んだ歴史教科書
から離れる事ができない傾向にある。
私の学んだ事は絶対に正しいと固執
する人もいる。冷静に考えてみるな
ら現在の教科書も明日には流動的に
書き変えられる可能性が充分あるの
だ。昔何度も通った通学路よりも人
間とはふと入り込んだ不思議な路地
裏に魅了された人も多いだろう、よ
り道や脱線こそが通学路ではなく真
の体験学習であった可能性もあるの
ではないだろうか?今回私は時代区
分や人物に束縛されず自由な歴史雑
学を楽しむ事にする。
◆小墾田宮(おはりだのみや)
先ず戦国時代に興味ある人は全く
小墾田宮(おはりだのみや)に興味
を示さない無いのが常である。
しかし連鎖思考をする人には、この
小墾田宮(おはりだのみや)は大変
興味深い意味深い言葉である。先ず
戦国時代には関係のない事案の小墾
田宮(おはりだのみや)の事は先ず
後回しにする事にしたい。
◆織田信長の若狭からの退却路
◆近江の針地名①{針畑」
文献『信長公記』元亀元年(1570年)
4月27日「金ヶ崎の退き口」と呼ば
れる撤退戦が記録されている。
『公記』元文には以下の如く記録
されている。前略「金ヶ崎の城には、
木下藤吉郎残しをかせられ、四月晦
日朽木越えをさせられ、朽木信濃守
馳走申し、京都に至つて御人数打ち
納められ、是れより、明智十兵衛、
丹羽五郎左衛門両人、若州へ差し遣
はされ、武藤上野人質執り侯て参る
べきの旨、御諚侯。則ち、武藤上野
守母儀を人質として召し置き、其の
上、武藤構へ破却され五月六日はり
はた越えにて罷り上り、右の様子言
上侯。」である。
この文献で私が注目したい文言や
地名は★はりはた越え★である。近
江国と若狭の境にある地名であり
、開墾に関する、「ハリ地名」
と山間の畑地耕作地名である「畑」
地名の融合した地名であると私は
推定する。感の鋭い人ならば
開墾の文字と前出の「小墾田宮]
(おはりだのみや)や尾張出身の
織田信長に関連づけて脳内を活性
する人も居るかもしれない。脳内
を活性化させるには反復し繰り返す
記憶学習よりも連鎖反応的思考
が脳内の記憶を定着し印象づけやす
いと私は考えている。よく世間で
取り沙汰される物知り博学の人
とは実は丸暗記や丸写し型の
コピー型の人間ではなく柔軟な
連鎖思考を展開する人だと私は
推定する。
◆近江の針地名②
近江から美濃に抜ける間道にかって
「針川」なる集落が存在した。その位置
は現代の滋賀県長浜市余呉町丹生谷方面
に存在した集落名で集落跡である。滋賀
県長浜市余呉町針川(よごちょうはりか
わ)針川は1970年に挙家離村して廃村に
なったとされる。
◆近江の針地名③
滋賀県長浜市春近町(はるちか)
角川日本地名辞典25滋賀県には中世にお
いて春近は(はりちか)と呼ばれていた事
が記述されている。
原典の『大原観音寺文書』は康永三年2
月の「沙弥蓮覚田地売件」とは1344年
に該当する。はりちかが開墾田に関する
地名か云々は判然としない。

◆歴史民族学で「ハリ」は一般に開墾の
意味と解釈されている。冶と書いてハリ
と読ませる新しく開墾した地名にハリが
付けられる場合が多い今治「いまばり」
などの地名もこれに該当するのだろう。
◆近江の針地名④以下はウイッキペデイ
アから引用する。針江区(はりえく)は、
日本の滋賀県高島市にある地区である。
行政区画では、高島市新旭町針江に
相当する。旧高島郡新旭町針江区、旧高
島郡饗庭村針江地区、さらに古くは、同
郡針江村。
地名の由来。針江は、古代の日本において
「新たに切り拓いた土地」を意味する
「墾り(ハリ)」と「水辺」を意味する
「江(エ)」から生まれた地名であり、
すなわち、古代の開墾民が湖沼の支配的
な環境を整備して造成した土地であること
を示している。なお、同じ由来を持つ同名
地名として、島根県雲南市大東町大東下分
針江がある。
◆近江の人名① 治田連「はりたのむらじ
」一説に浅井郡丁野郷の中島氏の先祖とも
言う?
治田連は『新撰姓氏録』では、彦坐王
(ひこいますのみこ)四世の後に近江国の
浅井郡に土地を賜り、またその六世の後に
治田連の姓を賜ったといわれています
。7世紀ごろに、琵琶湖を隔てた瀬田の
両岸あたりの栗太郡治田郷(現在の草津市
の矢橋・南笠から大路・青地・山寺一帯
)に居住していたようです。
石坐神社の社伝によると、瀬田に設けられ
た近江国府の初代国造・治田連がその四代
前の租・彦坐王命を茶臼山に葬り、その背
後の御霊殿山を神体山(神奈備)として祀
ったのが創祀という。
淡海国造(治田連) 治田神社
◆近江国旧坂田郡 磨針峠の原典
中山道磨針峠「 なかせんどうすりはり
とうげ」の伝説は以下のようなもの。
「道はなほ学ぶることの 難(かた)から
む 斧を針とせし人もこそあれ」その昔、
まだ修行中の弘法大師がこの峠にさしかか
ったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに
出会います。聞くと、一本きりの大切な針
を折ってしまったので、斧をこうして磨い
て針にするといいます。そのとき、ハッと
悟った大師は、自分の修行の未熟さを恥じ
、修行に励んだと言います。その後、再び
この峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え
、杉の若木を植え、この一首を詠んだと伝
えます。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」
と呼ばれるようになりました。とある。
さてさて「道はなほ学ぶることの 難(かた
)からむ 斧を針とせし人もこそあれ」の名
言には日本人ならだれでも感銘する名言であ
ろう苦労難行を乗り越えた己の研鑚に努めた
人こそ大成すると言う。学業や向学心や研究
者には一種の求道を感じさせる文言。ところ
がしかしこの磨針峠伝説の名文にも中国の
原典が介在している。
◆磨針峠伝説の原典は中国の『方輿勝覧
』五三★「磨針渓」。
★「磨斧作針」★
読み方 まふさくしん
意味 惜しまずに努力し続ければ、困難なこと
でも必ず成就することのたとえ。
学問に挫折した若い頃の李白が帰郷するか悩
んでいると、鉄の斧を磨いている老女を見か
けた。何をしているのか尋ねると「鉄の斧を
磨いて針を作っている」と答えた。
老女の行動から努力・根気の強さを学んだ
李白は学問に励むようになったという故事
から。
★「老婆」「斧」「針」が登場する説話の
原典は中国にあると言えましよう。
長谷川博美
◆古代播磨の国
古代の播磨国は播磨の文字を用いず平城宮
遺跡の木簡に「針間」の文字が使われている
事が判明している。従って播磨の国は「播」
でなく「針」であった事がわかる。磨くは
磨針と同じ。
◆『魏志倭人伝』の倭国の中の「針国」
三世紀の古代倭国の中に燦然と輝く倭国連合
の一つ「針国」が記されている。是を軽率に
現在の播州播磨兵庫県と比定する事は慎みた
い。なせならば九州にも針地名が、頻出する
ので確定は無理なのだ。しかし幻想的で、
ゾクゾクするような古代ロマンを感じさせる
古代倭国のひとつが「針国」であろう。また
中国から伝来した文字の政治の「治」の文字
にはサンズイ編がついている事も農冶から
政治がつまり治水して水稲が成就し国民を
安泰ならしめる大嘗祭の様な儀礼から出発
している事が想像される。
◆城郭普請場における尾張王!美濃王!
織田信長の異形の装束!
~二条御所普請・作事の様子~
その普請に際し信長は、自らカンナを手に
質素な衣服を着用し、何処でも座れる様に
虎革を腰に巻き、自ら指図した。とある
。尾張王 信長が腰に蓑を捲いていた事が
わかる。
◆神武東征神話に登場する異形の人
・国つ神・井氷鹿(尾生ふる人)→吉野の
首等が祖・国つ神・石押分之子(尾生ふる人)
→吉野の国栖が祖この尾がある腰蓑姿の神を
吉野の修験道系の人々と考えるか?または
尾張系の神と考えるか?
古代大和には東海尾張系の土器が多数発見
されているとも言う。
◆小墾田宮
小墾田宮(おはりだのみや)は飛鳥時代の
推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の
宮殿。「小治田宮」とも書く。近年の発掘
調査から、奈良県明日香村の雷丘周辺にあ
った可能性が高くなっている。
★小墾田宮、小治田宮の地名には「はり」と
言う音韻が介在共通している事に着目!
◆ A 推古朝の小墾田宮
日本書紀によると603年(推古11年)、
豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古女帝
は新宮として小墾田宮を造営しここに居を移
したという。国家権力の中心地として築造し、
遷宮したと考えられる。第1回遣隋使に、政
治が未開状態だと隋文帝に改革を訓令された
失敗から、政治改革を実現し、その後に第2
回遣隋使と、それによる隋使の来訪と歓待を
意識した宮の新造だと指摘されている[1]。
1.^ 石井正敏他(編) 2011, pp. 173-
174、榎本淳一「比較儀礼論」
その後女帝が崩御するまでの間に、蘇我氏、
聖徳太子らを中心として、603年(推古11年
冠位十二階の制定、604年十七条憲法の制定、
607年(推古15年)第2回遣隋使派遣などの
重要施策がこの宮で行われた。日本書紀の
記述からこの宮の構造は、南に「南門」を
構えその北に諸大夫の勤する「庁」が並ぶ
「朝庭」が広がり、そのさらに北の大門を
入ると女帝の住まう「大殿」が営まれていた
ことが推定される。これは後代の宮城において、
朝堂院と大極殿および内裏に発展するものの
原型と思われる。608年推古16年隋煬帝勅使
裴世清を迎えて、朝庭で隋国書の宣読と国書
と国進物の進上儀式が行われた。数日後に宮
で隋使饗宴が開催された(『日本書記』推古
天皇16年4月-8月条)[2.^ 石井正敏他(編)
2011, pp. 174-176、榎本淳一「比較儀礼論」
◆B 淳仁・称徳朝の小治田宮の発見
小墾田宮の所在地については奈良県高市郡明日香
村豊浦(とようら)に「古宮」という小字名があ
ることから、以前より有力地とされていた。1970
年(昭和45年)に第1次調査、1973年(昭和48年
)に第2次調査が行われた。その発掘調査では宮殿
跡は見つからなかったが、7世紀初頭の掘立柱建物群、
庭園・大溝などの遺構が見つかった。その後、淳仁
・称徳朝の小治田宮が発見され(後述)、さらに19
86年(昭和61年)6月に雷丘南麓の雷内畑遺跡(いか
づちうちばたいせき)で、6世紀末から7世紀初めの
苑池と石敷の一部分が発見[3]3.^ a b 飛鳥遺跡
地図 され、これが推古朝の小墾田宮の比定候補地
として注目されるようになり、この遺跡を「小墾田
宮推定地」と呼ぶことが少なくない。 おわりた↑
◆C 淳仁・称徳朝の小治田宮「おわりたのみや」
雷丘東方遺跡出土
「小治田宮」墨書銘土器
明日香村埋蔵文化財展示室展示。
淳仁・称徳朝にあっては、両天皇の行宮として営ま
れた。760年(天平宝字4年)に淳仁天皇は播磨国
など4か国の糒を小治田宮に蓄えさせ、同宮への
行幸が実施された。天皇は翌年1月に平城宮に戻
るものの、内裏には入らず武部(兵部省)曹司を
御在所とした上、同年秋には保良宮に再度行幸し
ていることから、当時実施されていた平城宮の改築
工事と関連していると考えられている[4]。4.^
橋本義則『古代宮都の内裏構造』
吉川弘文館、2011年、253-255頁。ISBN 978-4-
642-02481-5。
推古朝の小墾田宮との関係ははっきりしないが、
1987年(昭和62年)7月、藤原京の南東端に近い
雷丘東南の雷丘東方遺跡3次発掘[3]で「小治田宮」
と記す墨書土器破片が多数出土した。これは奈良時代
の淳仁朝にかかわる墨書で、この付近に「小治田」
の地名があり、天平年間末年から平安時代初期ころ
までにかけての小治田宮があったことがかなり有力
になってきている[5]。 5.^ 渡辺(2001)p.303-304
究で楽しく脳内活性化を!
はじめに
様々な時代の地名や歴史を連鎖的に
回想する事により歴史の中の時空の中
を楽しく自由に旅する事は高齢者社会
にとり頭脳を活性化する貴重な機会や
チャンスであると私は思う。
歴史の中の一時代を研究考察する事は
正論であるが、時に人は大鳥になった
様な気分で、様々な歴史事象の共通根
を鳥瞰つまり大観して歴史の普遍性や
法則を体得する事は大切な事である
と私は考えている。テスト勉強で記
憶した歴史は一晩で忘れ去ってしまう
。しかしユニークな先生が少し脱線
した歴史的逸話を挿入された内容
こそ人間は鮮明に記憶しているもの
である。その時、学生さんは歴史を
苦学したのではなく楽学習得した事
になる。高齢者になると今日学んだ
事は即刻忘れている。大脳科学では
新知記憶を高齢者は記憶しにくくな
るとも言う。
従って高齢者は昔学んだ歴史教科書
から離れる事ができない傾向にある。
私の学んだ事は絶対に正しいと固執
する人もいる。冷静に考えてみるな
ら現在の教科書も明日には流動的に
書き変えられる可能性が充分あるの
だ。昔何度も通った通学路よりも人
間とはふと入り込んだ不思議な路地
裏に魅了された人も多いだろう、よ
り道や脱線こそが通学路ではなく真
の体験学習であった可能性もあるの
ではないだろうか?今回私は時代区
分や人物に束縛されず自由な歴史雑
学を楽しむ事にする。
◆小墾田宮(おはりだのみや)
先ず戦国時代に興味ある人は全く
小墾田宮(おはりだのみや)に興味
を示さない無いのが常である。
しかし連鎖思考をする人には、この
小墾田宮(おはりだのみや)は大変
興味深い意味深い言葉である。先ず
戦国時代には関係のない事案の小墾
田宮(おはりだのみや)の事は先ず
後回しにする事にしたい。
◆織田信長の若狭からの退却路
◆近江の針地名①{針畑」
文献『信長公記』元亀元年(1570年)
4月27日「金ヶ崎の退き口」と呼ば
れる撤退戦が記録されている。
『公記』元文には以下の如く記録
されている。前略「金ヶ崎の城には、
木下藤吉郎残しをかせられ、四月晦
日朽木越えをさせられ、朽木信濃守
馳走申し、京都に至つて御人数打ち
納められ、是れより、明智十兵衛、
丹羽五郎左衛門両人、若州へ差し遣
はされ、武藤上野人質執り侯て参る
べきの旨、御諚侯。則ち、武藤上野
守母儀を人質として召し置き、其の
上、武藤構へ破却され五月六日はり
はた越えにて罷り上り、右の様子言
上侯。」である。
この文献で私が注目したい文言や
地名は★はりはた越え★である。近
江国と若狭の境にある地名であり
、開墾に関する、「ハリ地名」
と山間の畑地耕作地名である「畑」
地名の融合した地名であると私は
推定する。感の鋭い人ならば
開墾の文字と前出の「小墾田宮]
(おはりだのみや)や尾張出身の
織田信長に関連づけて脳内を活性
する人も居るかもしれない。脳内
を活性化させるには反復し繰り返す
記憶学習よりも連鎖反応的思考
が脳内の記憶を定着し印象づけやす
いと私は考えている。よく世間で
取り沙汰される物知り博学の人
とは実は丸暗記や丸写し型の
コピー型の人間ではなく柔軟な
連鎖思考を展開する人だと私は
推定する。
◆近江の針地名②
近江から美濃に抜ける間道にかって
「針川」なる集落が存在した。その位置
は現代の滋賀県長浜市余呉町丹生谷方面
に存在した集落名で集落跡である。滋賀
県長浜市余呉町針川(よごちょうはりか
わ)針川は1970年に挙家離村して廃村に
なったとされる。
◆近江の針地名③
滋賀県長浜市春近町(はるちか)
角川日本地名辞典25滋賀県には中世にお
いて春近は(はりちか)と呼ばれていた事
が記述されている。
原典の『大原観音寺文書』は康永三年2
月の「沙弥蓮覚田地売件」とは1344年
に該当する。はりちかが開墾田に関する
地名か云々は判然としない。

◆歴史民族学で「ハリ」は一般に開墾の
意味と解釈されている。冶と書いてハリ
と読ませる新しく開墾した地名にハリが
付けられる場合が多い今治「いまばり」
などの地名もこれに該当するのだろう。
◆近江の針地名④以下はウイッキペデイ
アから引用する。針江区(はりえく)は、
日本の滋賀県高島市にある地区である。
行政区画では、高島市新旭町針江に
相当する。旧高島郡新旭町針江区、旧高
島郡饗庭村針江地区、さらに古くは、同
郡針江村。
地名の由来。針江は、古代の日本において
「新たに切り拓いた土地」を意味する
「墾り(ハリ)」と「水辺」を意味する
「江(エ)」から生まれた地名であり、
すなわち、古代の開墾民が湖沼の支配的
な環境を整備して造成した土地であること
を示している。なお、同じ由来を持つ同名
地名として、島根県雲南市大東町大東下分
針江がある。
◆近江の人名① 治田連「はりたのむらじ
」一説に浅井郡丁野郷の中島氏の先祖とも
言う?
治田連は『新撰姓氏録』では、彦坐王
(ひこいますのみこ)四世の後に近江国の
浅井郡に土地を賜り、またその六世の後に
治田連の姓を賜ったといわれています
。7世紀ごろに、琵琶湖を隔てた瀬田の
両岸あたりの栗太郡治田郷(現在の草津市
の矢橋・南笠から大路・青地・山寺一帯
)に居住していたようです。
石坐神社の社伝によると、瀬田に設けられ
た近江国府の初代国造・治田連がその四代
前の租・彦坐王命を茶臼山に葬り、その背
後の御霊殿山を神体山(神奈備)として祀
ったのが創祀という。
淡海国造(治田連) 治田神社
◆近江国旧坂田郡 磨針峠の原典
中山道磨針峠「 なかせんどうすりはり
とうげ」の伝説は以下のようなもの。
「道はなほ学ぶることの 難(かた)から
む 斧を針とせし人もこそあれ」その昔、
まだ修行中の弘法大師がこの峠にさしかか
ったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに
出会います。聞くと、一本きりの大切な針
を折ってしまったので、斧をこうして磨い
て針にするといいます。そのとき、ハッと
悟った大師は、自分の修行の未熟さを恥じ
、修行に励んだと言います。その後、再び
この峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え
、杉の若木を植え、この一首を詠んだと伝
えます。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」
と呼ばれるようになりました。とある。
さてさて「道はなほ学ぶることの 難(かた
)からむ 斧を針とせし人もこそあれ」の名
言には日本人ならだれでも感銘する名言であ
ろう苦労難行を乗り越えた己の研鑚に努めた
人こそ大成すると言う。学業や向学心や研究
者には一種の求道を感じさせる文言。ところ
がしかしこの磨針峠伝説の名文にも中国の
原典が介在している。
◆磨針峠伝説の原典は中国の『方輿勝覧
』五三★「磨針渓」。
★「磨斧作針」★
読み方 まふさくしん
意味 惜しまずに努力し続ければ、困難なこと
でも必ず成就することのたとえ。
学問に挫折した若い頃の李白が帰郷するか悩
んでいると、鉄の斧を磨いている老女を見か
けた。何をしているのか尋ねると「鉄の斧を
磨いて針を作っている」と答えた。
老女の行動から努力・根気の強さを学んだ
李白は学問に励むようになったという故事
から。
★「老婆」「斧」「針」が登場する説話の
原典は中国にあると言えましよう。
長谷川博美
◆古代播磨の国
古代の播磨国は播磨の文字を用いず平城宮
遺跡の木簡に「針間」の文字が使われている
事が判明している。従って播磨の国は「播」
でなく「針」であった事がわかる。磨くは
磨針と同じ。
◆『魏志倭人伝』の倭国の中の「針国」
三世紀の古代倭国の中に燦然と輝く倭国連合
の一つ「針国」が記されている。是を軽率に
現在の播州播磨兵庫県と比定する事は慎みた
い。なせならば九州にも針地名が、頻出する
ので確定は無理なのだ。しかし幻想的で、
ゾクゾクするような古代ロマンを感じさせる
古代倭国のひとつが「針国」であろう。また
中国から伝来した文字の政治の「治」の文字
にはサンズイ編がついている事も農冶から
政治がつまり治水して水稲が成就し国民を
安泰ならしめる大嘗祭の様な儀礼から出発
している事が想像される。
◆城郭普請場における尾張王!美濃王!
織田信長の異形の装束!
~二条御所普請・作事の様子~
その普請に際し信長は、自らカンナを手に
質素な衣服を着用し、何処でも座れる様に
虎革を腰に巻き、自ら指図した。とある
。尾張王 信長が腰に蓑を捲いていた事が
わかる。
◆神武東征神話に登場する異形の人
・国つ神・井氷鹿(尾生ふる人)→吉野の
首等が祖・国つ神・石押分之子(尾生ふる人)
→吉野の国栖が祖この尾がある腰蓑姿の神を
吉野の修験道系の人々と考えるか?または
尾張系の神と考えるか?
古代大和には東海尾張系の土器が多数発見
されているとも言う。
◆小墾田宮
小墾田宮(おはりだのみや)は飛鳥時代の
推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の
宮殿。「小治田宮」とも書く。近年の発掘
調査から、奈良県明日香村の雷丘周辺にあ
った可能性が高くなっている。
★小墾田宮、小治田宮の地名には「はり」と
言う音韻が介在共通している事に着目!
◆ A 推古朝の小墾田宮
日本書紀によると603年(推古11年)、
豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古女帝
は新宮として小墾田宮を造営しここに居を移
したという。国家権力の中心地として築造し、
遷宮したと考えられる。第1回遣隋使に、政
治が未開状態だと隋文帝に改革を訓令された
失敗から、政治改革を実現し、その後に第2
回遣隋使と、それによる隋使の来訪と歓待を
意識した宮の新造だと指摘されている[1]。
1.^ 石井正敏他(編) 2011, pp. 173-
174、榎本淳一「比較儀礼論」
その後女帝が崩御するまでの間に、蘇我氏、
聖徳太子らを中心として、603年(推古11年
冠位十二階の制定、604年十七条憲法の制定、
607年(推古15年)第2回遣隋使派遣などの
重要施策がこの宮で行われた。日本書紀の
記述からこの宮の構造は、南に「南門」を
構えその北に諸大夫の勤する「庁」が並ぶ
「朝庭」が広がり、そのさらに北の大門を
入ると女帝の住まう「大殿」が営まれていた
ことが推定される。これは後代の宮城において、
朝堂院と大極殿および内裏に発展するものの
原型と思われる。608年推古16年隋煬帝勅使
裴世清を迎えて、朝庭で隋国書の宣読と国書
と国進物の進上儀式が行われた。数日後に宮
で隋使饗宴が開催された(『日本書記』推古
天皇16年4月-8月条)[2.^ 石井正敏他(編)
2011, pp. 174-176、榎本淳一「比較儀礼論」
◆B 淳仁・称徳朝の小治田宮の発見
小墾田宮の所在地については奈良県高市郡明日香
村豊浦(とようら)に「古宮」という小字名があ
ることから、以前より有力地とされていた。1970
年(昭和45年)に第1次調査、1973年(昭和48年
)に第2次調査が行われた。その発掘調査では宮殿
跡は見つからなかったが、7世紀初頭の掘立柱建物群、
庭園・大溝などの遺構が見つかった。その後、淳仁
・称徳朝の小治田宮が発見され(後述)、さらに19
86年(昭和61年)6月に雷丘南麓の雷内畑遺跡(いか
づちうちばたいせき)で、6世紀末から7世紀初めの
苑池と石敷の一部分が発見[3]3.^ a b 飛鳥遺跡
地図 され、これが推古朝の小墾田宮の比定候補地
として注目されるようになり、この遺跡を「小墾田
宮推定地」と呼ぶことが少なくない。 おわりた↑
◆C 淳仁・称徳朝の小治田宮「おわりたのみや」
雷丘東方遺跡出土
「小治田宮」墨書銘土器
明日香村埋蔵文化財展示室展示。
淳仁・称徳朝にあっては、両天皇の行宮として営ま
れた。760年(天平宝字4年)に淳仁天皇は播磨国
など4か国の糒を小治田宮に蓄えさせ、同宮への
行幸が実施された。天皇は翌年1月に平城宮に戻
るものの、内裏には入らず武部(兵部省)曹司を
御在所とした上、同年秋には保良宮に再度行幸し
ていることから、当時実施されていた平城宮の改築
工事と関連していると考えられている[4]。4.^
橋本義則『古代宮都の内裏構造』
吉川弘文館、2011年、253-255頁。ISBN 978-4-
642-02481-5。
推古朝の小墾田宮との関係ははっきりしないが、
1987年(昭和62年)7月、藤原京の南東端に近い
雷丘東南の雷丘東方遺跡3次発掘[3]で「小治田宮」
と記す墨書土器破片が多数出土した。これは奈良時代
の淳仁朝にかかわる墨書で、この付近に「小治田」
の地名があり、天平年間末年から平安時代初期ころ
までにかけての小治田宮があったことがかなり有力
になってきている[5]。 5.^ 渡辺(2001)p.303-304