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城郭 長谷川博美 基本記録

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明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』13

2019-08-14 16:27:30 | 戦国
明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』13

小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作品には敬服
致します。小野先生の益々の御発展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非紹介したいと思います。

作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷川博美が担当しています。また当ブログでの解説も私が
担当させて頂いております。なお順番を追って紹介しますが皆様は順次ページを追って御鑑賞下さい。
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◆さて方円ときたら滋賀県長浜市に所在する虎姫高等学校の校歌を思い出す人も居られると思います。

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◆永楽銭と信長の選銭
 信長は広く日本に流通している永楽銭の粗悪な材質のものを除外する撰銭「えりぜに」も実施する。
◆さて明智光秀が劇画に登場するが小野先生は織田軍武将連とは異なる空気感を明智に投影している。
明智は信長より年長者であるし、劇画では織田の外様武将の明智の怜悧な様子を見事に表現している。
◆宣教師達
 宣教師達も明智は信長の宮廷の外様と呼ばれていたと記録していて明智は途中採用された家臣である。
◆小野先生の描く明智光秀の表情が秀逸だ。いかにも明智らしいイメージ印象を醸し出して素晴らしい。
◆明智は最近の研究で永禄8年には近江高島郡田中の城で籠城している事が判明し織田傘下でない時代の
 明智の様子が窺われる。明智が早くから近江高島郡で活躍するなど益々近江明智の謎が深まってきている。
◆田中城の堀切写真「長谷川2019年」撮影

明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』14

2019-08-12 20:19:53 | 戦国
明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』14

小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作品には敬服
致します。小野先生の益々の御発展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非紹介したいと思います。

作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷川博美が担当しています。また当ブログでの解説も私が
担当させて頂いております。なお順番を追って紹介しますが皆様は順次ページを追って御鑑賞下さい。

★先ずは『元亀の騒乱』1から読まれる事をお勧め致します。各回の逸話やエピソードや図や文書も逐次
毎日増補記入しておりますので繰り返して前のページから是非ご覧くださいませ!宜しく御願いします。
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◆羽柴藤吉郎秀吉の巧みな処世術そして主君信長の心の中の「鬱」を吹き飛ばすような大言壮語です。
彼こそはサラリーマンの手本と言うべきでしょうか?藤吉郎の言う。天下は元亀足利幕府の目指した
畿内元亀天下統治や三好長慶の様な畿内政権の天下ではなく日本、唐、天竺をも含んだ天下ではない
だろうか?それは織田信長や藤吉郎の志向した破格の壮大稀有の東洋史学的な天下ではないだろうか?

◆明智光秀の正式な日向守任官は?
天正3年 朝廷より、従五位下と「惟任(これとう)」の姓を賜り、正式に日向守に任じられている。
天正三年段階で九州の名族「惟任」姓を明智光秀に名のらせる織田信長方の先見の明の戦略に驚く。

◆秀吉の木下姓の文献とは?
織田信長家臣の秀吉は初期の名字は「木下」を用いた。もっとも、秀吉の氏素性は確かではない。
秀吉の木下姓が確認される文献資料は織田信長が、美濃の土豪坪内利定に与えた知行安堵状の添状
(永禄8年(1565年)11月2日付)に「木下藤吉郎秀吉」と署名しているのが初発であろう。

◆秀吉の木下から羽柴姓への改姓時期は?
織田信長家臣の秀吉は戦功を重ね信長の有力部将として頭角を現す。木下から羽柴に改めたことを示す
最初の文献は元亀4年(1573年)7月20日付で大山崎惣中に縄の供出を求めた書状で「羽柴藤吉郎秀吉」
と署名している。

◆私、長谷川はNHK名古屋文化センター様で約5年米原市近江公民館で約4年都合9年の『信長公記』
の講師歴を持っているが

『信長公記』では、元亀3年7月24日条に近江一向一揆掃討の指揮官として「木下藤吉郎」の名を記し、
同年8月条では虎御前山に建設された小谷城攻めの為の「陣城」砦の「定番(じょうばん)」として
「羽柴藤吉郎」の名が記されている。『武功夜話』等も参考にすると近江では秀吉は浅井方から奪取
した横山城の在番や虎御前山城の「定番(じょうばん)」と次々と信長のもとで北近江に地盤を確保
している。
◆2010年 長谷川博美 虎御前山城見学会 写真右端が著者 長谷川


◆連歌師 里村 紹巴「さとむら じょうは」は織田信長が畿内平定を終えた祝宴で織田信長に二本の
開いた扇を献納している。末広がりの二本の扇を信長が収めると言う。『信長公記』に記された日本
を手に取ると言う暗喩や比喩にこそ、連歌師、里村 紹巴「さとむら じょうは」の恐ろしい物を感じる。
公家の三条西公条をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光
など多数の武将とも交流を持ち、天正10年(1582年)、明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは
有名である。本能寺の変後には豊臣秀吉に疑われるも難を逃れた。

◆連歌師 里村 紹巴「さとむら じょうは」も訪れた記録がある東近江市 布施山城見学会の記念写真
                  前列黒い帽子姿の著者 ↓ 長谷川博美


佐和山 松原内湖 織田信長 明智光秀伝承 長谷川博美

2019-08-04 03:03:01 | 戦国
佐和山 松原内湖 織田信長 明智光秀伝承 長谷川博美
関東さん「仮名」
 歴代の徳川将軍は大黒天の兜を作らせています。
長谷川
 京都の朝廷の天皇に対し国神「諸侯」を束ね国事を執行する出雲の大国主の神「大黒天」
に歴代将軍を擬して、徳川幕府の日本の国事代行権をシンボリックにする為のイメージ策戦
でしう。明治維新に徳川幕府は大政奉還つまり日本国の政治を朝廷に徳川幕府から返上して
います。
犬上さん「仮名」
 明智光秀が大黒天を川の流で拾って千人の家臣を持つ大黒天に満足しないと放言したとか?
長谷川
 『淡海温故禄』の記述内容ですね!?

 歴史通さん「仮名」
 何で明智光秀が近江犬上郡出身説が出るんだよ!そんなの歴史的事実と全く関係ないよ!
長谷川
 ところが『淡海温故禄』は最古の明智光秀伝説を記録しているんです。但し伝説ですよ!
明智光秀伝説としては日本最古なんです。良いですか!私は今明智伝説の話をしています。

歴史通さん「仮名」
 ない、ない、ない!そんな伝説は絶対にありえない!絶対にありえずはずがないのですよ!
長谷川
 近江国犬上郡出身の名築城家とは?
歴史通さん「仮名」
 近江国犬上郡在士出身の藤堂高虎でしょうが!
長谷川
 名築城家の百々三河守は誰の家臣でしたかな?
歴史通さん「仮名」
 最初岐阜の織田氏次に山内一豊の家臣となり土佐高知城を設計した人ですね?近江伊香郡
 の土豪の東野氏も土佐藩の家老になったりしています。百々三河守と言えばね佐和山城の
 城主も務めた由緒ある家系ですか?
坂田さん「仮名」
 百々三河守のルーッと言えば近江国坂田郡と犬上郡の境の鳥居本の百々屋敷そして京極や
浅井の家臣の系譜でもある。
長谷川
 甲良豊後守と言う大工は何した人ですか?
関東さん「仮名」
 そりや日光東照宮や徳川幕府の御殿を担当した近江犬上郡の大工さんでしよ?藤堂高虎
 つながりで推薦された人々なんでしよう?甲良大工は室町幕府の御殿図面も残していて
 それが江戸時代になって役立ったんでしょう?徳川家光の母は近江浅井氏ですし藤堂は
 若き日には浅井長政の小姓も務めていた人でしたね?そういう人脈でしよ?小堀遠州も
 近江長浜出身の人でしよう?有名な茶人であり作庭家でもあった人と聞いていますよ。
長谷川
 名築城家ともされる明智光秀が近江国犬上郡佐目に関係のある人だったらどうしますか?
歴史通さん「仮名」
 有り得ない。有り得ない。100%有り得ない!
長谷川
 彦根には芹川と言う川が彦根城の南に流れています。勢利川と往昔は書いたのです。
彦根さん「仮名」
 あります。あります。芹川は彦根市民の憩いの川なのです。彦根城の大外堀ですよ。
長谷川
 元亀天正の頃は芹川は勢利川と書いて佐和山の西松原内湖に流れ込んでいたんです。

彦根さん「仮名」
 知ってますよ。彦根市民ならば誰でも知ってますよ!芹川が松原に流れていた伝説を!
長谷川
 元亀四年天正元年(西暦1570 年)杣人「きこり」を多賀方面に派遣して材木を伐採し
勢利川を松原内湖へと流して国中の鍛冶「鍛冶屋」・番匠「大工」・杣「きこり「を集
め、後にあの安土城の天主の大工棟梁となる岡部又右衛門に彦根市松原内湖で大船を作ら
せています。
『信長公記』 元亀四年天正元年(西暦1570 年)より
「五月廿二日、佐和山へ御座を移され、多賀・山田・山中の材木をとらせ、佐和
山の麓、松原へ、勢利川通り引下し、国中の鍛冶・番匠・杣を召し寄せ、御大工
岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間、横七間、櫓を百挺立たせ、艫舳に矢蔵
を上げ、丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かされ、在佐和山なされ、油断なく、夜を
日に継ぎて仕り侯間、程なく、七月三日、出来吃んぬ。事も生便敷大船、上下耳
目を驚かすこと、案の如し。」

城郭愛好家様「仮名」
 長谷川先生は城郭の先生であって文献『信長公記』の先生ではないでしょうが?
長谷川
 すみません。私はNHK名古屋文化センターで約5年米原市近江公民館で約4年
都合9年文献『信長公記』解説講師をさせて頂いておりました。大変感謝してます。

長谷川
 信長が芹川「勢利川」上流から木材を川流しするには多賀方面に杣人を派遣する
必要があります!民俗学的に来栖「くるす」と言う上流に秀吉が派遣された可能性
は多賀の来栖には太閤出世太鼓踊りなる秀吉が長浜城を得た事を祝う行事が開催さ
れています。

歴史通さん「仮名」
 そんな馬鹿げた事があるかい!?犬上郡多賀来栖に太閤出世太鼓踊など無い!
 犬上郡多賀町来栖に若きころの秀吉が来ていたなん事は絶対にありえないはず!
 確かに織田信長に京極氏の子息、京極が保護されたり、多賀久徳氏の遺児
 が信長に保護された経緯はあるのだが?
長谷川
 そうですね。絶対にありえないと人間の脳が決定してまう訳なんですよね?
 明智が近江高島郡田中の城に永禄9年頃籠城していた貴重な記録※①も出て来た! 
 それでは、伝承資料『武功夜話』を、引用ではなく参考にしてみましようか?



とぼけ様「仮名」
 あれまあ~サンタルチア!ナンタルチア!藤吉朗が芹川の上流の来栖に来ていたの?
歴史通さん「仮名」
 とぼけないで下さい!真面目な歴史研究をして下さいよ!天正10年本能寺の変の後
には近江多賀大社に明智光秀は禁制をだしています。これはね正真正銘の文献ですよ!
長谷川
 まあまあ今回は伝説を考察している訳でして厳格な文献史学の世界と言うより
 明智光秀の多賀大黒天伝説を楽しみましょう!楽しんでいる間に歴史の深淵が
 浮かび上がるかもしれないでしよう。今回は気楽に気楽なリラックスが大切!
とぼけ様「仮名」
 芹川を、ざんふらこ、ざんらこと、大黒が流れて松原に流れるイメージですね!

歴史通さん「仮名」
 サッパリ訳が分からん!何で大黒天が松原内湖に流れ着くのか!訳わからんわ!
とぼけ様「仮名」
 松原内湖に浮かぶ四角い田圃の地名は?何でしょう?さてここの地名が気になる!
長谷川
 話題はこの辺で終わりです!近江高等学校が101回夏の甲子園の代表校になられた事を祝福します。
とぼけ様「仮名」
 ええっっと、、、、近江高等学校様を検索すると、、、、近江高等学校(おうみこうとうがっこう)
は、滋賀県彦根市松原町※大黒前※にある私立高等学校。ありやまあ!びっくり!明智伝説楽しんで
ますが何故か?何か夏なのにゾガゾガと寒気を感じます。ついでに近江と越前の境には大黒山もある?
長谷川
 犬上郡の中山道には葛籠町がありますよね?
 つまり、室町幕府以来の葛籠座が存在した。
 葛籠に使う藤の木は多賀町佐目に限定されてた。
とぼけ様「仮名」
 そうそうそう。佐目の藤は日本最高の藤なのです。
長谷川
 織田信長も、麒麟の花押を、使いましたが
 麒麟の花押を使った室町将軍はだれですか?
とぼけ様「仮名」
 足利義輝です。将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官・樹下成保の第で
 行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ)と名乗った人。一方細川氏は天文15年
(1546年)、将軍・足利義藤(後の足利義輝)の偏諱を藤を受、細川藤孝と名乗る。天文21年(1552年
従五位下・兵部大輔に叙任された。細川幽斎の事です。
長谷川
 明智や信長の存命時代の近江立入氏の記録には明智は土岐の随分の衆と書いている。随分とは随員
の事であり明智自身を土岐氏だとは言ってません。宣教師ルイス・フロイスの「日本史」には「明智
光秀が細川家の中間であった」と記載されている。医師江村専斎の「老人雑話」では「明智光秀は細川
藤孝の家来だった」とも書いてある。

※①
村井祐樹「幻の信長上洛作戦」により、「米田文書」に残された『針薬方』奥書に、
「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」との記述があることが確認された。
同書は光秀の口伝を筆録した沼田勘解由左衛門から、永禄9年10月20日に米田貞能が
近江坂本で写したものであり、ここに光秀の史料上の初見が更新された。ここから
いえるのは①光秀は医学の知識を有していたこと、②近江湖西にすでに地理観を有し
ていたことの2点である。

利休 宗二 織部 の受難 信長の最期 茶器と魚介

2019-03-27 02:36:31 | 戦国
①利休 宗二 織部 の受難 信長の最期 茶器と魚介
千利休 山上宗二 古田織部 の三茶人は何れも時の権力者から処刑を受けている。
侘び数寄の精神文化と茶の湯の政道の二元性の軋轢や齟齬から三者は処刑されたと
私は推定する。特に山上宗二は秀吉に鼻と耳と首を切られて惨殺されている。『山上
宗二記』(その茶湯者覚悟十躰に「一期に一度」とあるが井伊直弼の茶の境地『一期
一会』に相通するものであろうか?井伊直弼も桜田門外の変で水戸浪士に首を取られ
て彼の生涯の最期を迎える。賎ケ岳の戦いでは山路正国が木村重玆を招いて陣中で
茶会を催し招いて木村を打たんとしたが未然に露見して失敗に終わり、旧主柴田勝家
陣営に帰り忠したが柴田は羽柴に大敗して山路は当該合戦で戦死している。古田織部
も徳川家康から一万石の録を受けながら豊臣方に帰り忠した嫌疑で自刃しその生涯を
終える。そもそも織田信長が本能寺の変でその生涯を閉じたのも京都本能寺にて自分の
蒐集した天下の茶器茶道具類を披露する為とも言われている。さて山上宗二の屋号が
薩摩屋、利休の屋号が(魚屋)「ととや」であるが当時の茶人達は元来裕福な経済力
を有する富裕層堺の納屋衆であり。織田信長は逸早く経済の要、国際貿易都市「堺」
を抑えて課税する事により巨利を得て茶人武野紹鴎門下で天下三宗匠と呼ばれた今井
宗久、津田宗及、 田中宗易(千利休)等と交流し茶器を蒐集、それを天下に披露し
茶の湯の政道をし中国攻めへと向かうのが本能寺宿泊の本来の目的であったのだろう。
本能寺の変の当日長谷川秀一案内で徳川家康が堺見物を織田信長に進められた事にも
留意すべきだ。
②魚と名茶器、九十九髪茄子(つくもかみなす)麩の焼き(ふのやき)「ふなやき」
 田中宗易こと(千利休)の屋号(魚屋)「ととや」である事に着目すると高級魚介
類を商う商人を連想させる。さて天下の名茶器である九十九髪茄子を一時期所持して
いたとされる北陸道随一の名将とされる越前朝倉金吾教景が驚くべき事に越前で鮭の
養殖や孵化に取り組んでいた文献が発見されている事だ。朝倉家軍代として百戦無敗
の名将や武人として有名であるが朝倉氏の守護神が代々海産物の神「赤淵大明神」で
ある事も着目したい、金吾教景は北陸海産物の集積港である敦賀郡司である事が重要
である。織田信長が逸早く越前敦賀郡の金ケ崎城を目指すも北近江の妹婿である浅井
長政に謀反され挟撃された歴史の謎があるが何故浅井は越前敦賀郡の救援に向かった
のか?何故豊臣秀吉は大谷吉継に敦賀郡を下賜したのか?何故浅井朝倉連合軍なのか?
何故何故近江の石田三成と越前大谷吉継連合軍による関ヶ原参陣なのか?本能寺の変
においても東海王たる徳川家康の堺見物なのか?歴史書には魚介類の占める経済力に
ついては言及してはいない。利休は茶会で麩の焼き(ふのやき)を用いたとされるが
一説に漁師が船上で小麦粉を焼いたクレープ状の食品が「ふなやき」とされているが

③山上宗二の直言癖
 宗二の直言癖は秀吉を激怒させ、その最期は鼻と耳と削がれ打ち首にされているが
先輩である利休に対しても、利休の急激な侘びへの傾斜に「山を谷、西を東と茶湯の
法度を破り、物を自由にす」と自分の直情で強固な性格や言論を隠さず全く驚愕する。
※山上宗二 やまのうえのそうじ
大辞林 第三版の解説より
やまのうえのそうじ
(1544~1590) 安土桃山時代の茶人。堺の人。号、瓢庵。千利休の高弟。秀吉の怒りを買い惨殺された。著「山上宗二記」
※桜田門外の変
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より
安政7 (1860) 年3月3日,江戸幕府大老井伊直弼が暗殺された事件。
※賎ケ岳の戦い しずがたけのたたかい
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より
天正 11 (1583) 年4月 21日近江国賤ヶ岳を中心に行われた豊臣秀吉と柴田勝家の戦い。
※古田織部ふるたおりべ
デジタル大辞泉より
[1544~1615]安土桃山時代の武将・茶人。美濃の人。名は重然(しげなり)。千利休に茶の湯を学び、徳川第2代将軍秀忠をはじめ諸大名にも伝授。大坂夏の陣のとき、豊臣家への内通を疑われて自刃。

ウッデイパル城郭フオーラム 明智光秀伝説の講演

2018-08-24 11:18:22 | 戦国
城郭ビイスタ論 上文字クリック
対談者
この写真から熱気のようなものを感じます。進撃に次ぐ進撃!
そんな雰囲気です。この会のサポターさんはガイドさんですか?
長谷川
 いいえガイド組織とは一切関係のない城郭遺跡見学の完全無償
 の潔い希少なサポーターさんです。
対談者
 この会の会長さん饒舌でしよう?話の上手な如才ない才腕の人?
 この会長の魅力とは?
長谷川
 田畑会長は御話の上手な人ではありません。城址見学の前日に
 一心不乱に草刈りを無償でされ会長の真白なシャツが夕暮れ近く
 となり汗で茶色に変色するほど城址見学に無償で貢献される人。
 田畑さんもう止めよう!もう夕刻なので帰りましょうと私が感激
 して涙声で促しても「男とは簡単にひきさがってなりません」と
 強く私に言われました。私達は真っ直ぐです。涙が涙を呼び、友
 が友を呼び真心を大切にする涙の見学会を今日も続けてきました。
対談者
 はたして8/25の田畑会長企画、無料、長谷川先生明智光秀伝説
 講演は人が集合するでしょうか?13時~15時まで、A4資料約
 9ページ多賀中央公民館 で本当に人が集まるのでしょうか?
長谷川
 さあ勝敗は兵家の常!
 例え敗れると解っても
 恩義ある人の仁に答える事
 が義兵であり人の道です!
伝令役
 東近江の人々、田畑さんのかぶと虫の恩などなどに
 八日市、玉緒、布施の人々続々と馳せ向かうとの事。
 私達が浅井から大森山城や布施山城に見学の軍勢を
 差し向けし事よもや東近江の人々の忘れておられません!
長谷川
 すわ田畑様は天佑を得たり
 我は武者振るいするばかり!
伝令役
 田畑様の知己ある名士は大津、堅田、彦根、伊吹、木ノ本
 と広範!必ずや名のある人々講演へと到着されます。長谷川
 先生、田畑様は気をおとしてはなりません。心を清く保もち凛
 と涼風の如く力戦奮闘して臨めば何を恐れる事がありましょう!