WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

大津波の現場に立つ(4)

2011年04月23日 | 大津波の現場から

 私の住む三陸地方では、昔から津波の怖さについては家族や学校で繰り返し聞かされてきた。私なども祖父母や両親から三陸津波やチリ地震津波の経験談をしつこいと思うほど聞かされたものだ。だから、我々は津波に対するあるイメージをもち、地震があったら(それがたとえ地球の裏側であっても)、津波に警戒し、高台への避難を考えることが習慣になっている。実際、そのために助かった人は今回も大勢いたはずだ。しかし、そのことで逆に犠牲になった人たちもいたことを忘れてはならない。津波に対するイメージや対策の多くが、「チリ地震津波」をモデルにしていたのだ。私の街もそうだが、今回被害の多かった宮城県南三陸町(志津川)や岩手県陸前高田市などは街のいたるところに、「チリ地震津波到達線」のような標識があり、チリ地震津波を基準にした防災対策がとられていたのだ。この場所はチリ地震津波の時も水はこなかったから大丈夫だ、といって避難せず、犠牲になった人たちの話をいくつも聞く。

 私の職場の仲間の場合もそうだ。あの地震の2日前にちょっと大きな地震があり、津波注意報がでた。私は何気なく、「君の家も海の側だから危ないんじゃないの」といったのだが、「大丈夫、ああ見えても私の家は高台で、チリ地震津波も来なかったんですよ。地区の避難区域にもなっているんですよ。」と彼は答えた。もちろん私はそうなのかとだけ思い、何となく納得してしまった。2日後の大地震で彼の家族は避難せず、彼の両親と奥さん、そしてまだ幼い三男が流された。奥さんは何とか助かったが、両親と子どもはそのままである。家も跡形もなく流されてしまった。

     *     *     *     *

 さて、今回は、O地区である。ガソリン不足の中、長男とともに自転車でこの場所を訪れたのは津波から3日後のことだっとた。到着したのは夕方で、辺りはもう薄暗くなっていた。すべてが流され何も無い荒野の中に、日本一海岸に近い駅として売り出していた建物だけが無残な姿で残っていた。夏には多くの海水浴客を集めてにぎわった海岸は、砂浜も松林もほとんど失われ、へし折られた松の木々だけがただ転がっていた。

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(写真はクリックすると拡大されます)

 後日、再びこの場所を訪れてみると、そこは「更地」といってもよいほどの状態だった。軒を連ねた家々も、旅館も民宿も何も無かった。遠くに、建物だけ残った旅館が見える。中はもちろんめちゃめちゃだ。

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 海水浴客はもちろん、地元の商売人や高校生たちの足を支えた鉄道は、この沿線はどこも壊滅である。本当に復旧するのだろうか。

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