WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

渚にて

2013年11月17日 | 今日の一枚(I-J)

◎今日の一枚 359◎

Joe Sample

Carmel

 近所にある瓦礫焼却場での焼却作業が終了しいたらしい。数日前までは24時間もうもうと見えていた煙も、昨日からはもう見えない。瓦礫焼却場の周囲には広大な瓦礫分別場もあり、かつて美しい渚があったこの海辺の地区は、夜になると辺り一面に照明が点灯され、まるで巨大な要塞都市のようになってしまった。施設は12月中には解体されるということだ。そのあと、かさ上げ土地整理事業が始まるのだろう。美しい渚は復活するのだろうか。

     ※     ※     ※     ※

 ジョー・サンプルの1979年作品、『渚にて』である。学生の頃、ジョー・サンプルに熱病のようにハマり、毎日何度も聴き続けたことがある。といっても、後から振り返れば、熱病はわずか数週間でさめ、聴いたアルバムも結局、『虹の楽園』と、この『渚にて』の2つだけだったのだが・・・・。

 ずっとレンタル・レコードから録ったカセットテープで聴いていたのだが、カセットデッキが故障したこともあり、輸入盤の安いやつを買ってみた。しかし、こんなジャケットだったろうか。構図は記憶している通りだが、もっと、品のいい、お洒落でセンチメンタルな雰囲気のジャケットだと思っていた。ジョー・サンプルの顔がデカすぎる。そのデカくてゴツすぎる顔が、センチメンタルな構図を裏切っている。

 美しく気品のあるアコースティック・ピアノだ。いまでも耳が憶えている。リズム隊がしっかりしているのだろう。美しいだけでなく、サウン全体にメリハリがある。とても良い演奏だ。しかし、とても良い演奏だが、やはり聴きあきしてしまう。何というか、何度か聴いているうちに、予定調和的な感じがしてしまうのだ。結果的に私は、ジョー・サンプルのアルバムによって、フュージョンは聴きあきするということを学んでしまったようである。それは「先入観」なのかもしれない。けれども、その後の人生で私が出会ったフュージョン・ミュージックのほとんどは、やはり聴きあきするものだったような気がする。それでも、数年に一度聴いてみようかと思ってしまうのは、やはり音楽の力なのだろう。あるいはそれとも、若き日々への憧憬にすぎないのだろうか。

 アメリカ西海岸の地名である、タイトルの"Camel" を、『渚にて』という日本語に置き換えたのはいいセンスだと思う。ちょっと古風な感じもして私は好きだ。ただ、核戦争をテーマにした小説/映画の『渚にて』("On The Beach") との関係がいまひとつ不明である。小説『渚にて』は1957年に書かれ、映画は1959年に公開されている。このジョー・サンプルのアルバムに『渚にて』と命名した人物の念頭には、小説/映画があったはずであり、それとの関係が私には興味深い。


ジョン・ハートというギタリスト

2011年05月07日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 314●

John Hart

One Down

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 何度も同じ話をするが、3・11と4・7の地震によって、現在、私のCD棚はカテゴリーも演奏者もバラバラで、どこに何があるのか探すのがとても困難な状況である。したがって、最近はたまたま目についたものを取り出すようになっている。しかし、怪我の功名というべきか、普段あまり聴かない、「そういえばこれあったな」、という感じの作品に再びめぐりあうことがある。

 このCDもそうだ。ジョン・ハートの1988-1989録音作『ワン・ダウン』。レーベルはブルーノート、輸入盤である。確かに自分でこのアルバムを買った記憶はある。購入したのは、作品がリリースされた1990年ごろだと思う。しかし、どこで、またどんな経緯でこのアルバムを購入したのかどうしても思い出せない。そもそも私はこのジョン・ハートという人を知らなかったし、実のところ今でも知らないのだ。恐らくは、ショップで見て衝動買いしたのだと思うが、失礼ながら、ジャケ買いする程魅惑的なジャケットでもない。輸入盤なので、帯もついておらず、宣伝文句に惑わされた訳でもないと思う。謎だ。

 悪くない。ストレイトアヘッドなジャズである。爽快だ。奇をてらわない正統派のジャズギターが好ましい。シンプルなサウンドだが、疾走感がたまらなくいい。ギター・ソロも4曲あるが、なかなか雰囲気のあるギターを弾く。⑪ Ruby My Dear などジーンときてしまった。気持ちのいい一枚である。

    John Hart (g)

    Chuck Bergeron (b)

    John Riley (ds)

    Tim Hagans (tp)

    Rick Margitza (ts)

 ジョン・ハートについて知っている人がいたら是非教えてください。


Sweet Baby James

2011年04月25日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 308●

James Taylor

Sweet Baby James

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 夜中に目を覚まし、眠れなくなってしまった。波の音がする。最近、波の音が妙に大きい。大津波で松林や家々が流されてしまい。さえぎるものが何もなくなってしまったのだ。だいぶ地盤が下がり、海が以前よりかなりまじかになった。ちょっとした高台に上がればすぐに海が見える。この見晴らしのよさは何だろう。大昔はこんな風だったんだろうか。潮騒の音も、大津波の前と後ではだいぶ印象の違うものになってしまった。

     *     *     *

 JTことジェームス・テイラーの1970年作品、『スウィート・ベイビー・ジェイムス』。CDで買ったのはつい半年ほど前のこと(大津波の前だ!)。以前は、ずっとカセットテープで聴いていた。JTの優しさに満ちた声はいい。心が落ち着く。カントリーやブルースの影響を強く感じさせるサウンドは、私の音楽的嗜好の根っこの部分をくすぐるらしく、受け入れやすい。こんな夜には最適の一枚かもしれない。

 CDで聴いて感じるのは、格段に音がよくなったということだ。ギブソンのアコーステックギターの響きが生々しい。古いアルバムだが、できれば質の良いオーディオセットで聴きたい一枚である。

 外が明るくなってきた。どれ、もう一度、ベッドに入ってやすもうか。


東北新幹線全線開通

2010年12月04日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 295●

John Coltrane

Crescent

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 東北新幹線が「新青森」まで延長され、東北新幹線が全線開通となった。1982年に盛岡から大宮までが開通してから、28年ぶりのことだという。思いおこせば、東北新幹線が開業したのは私が大学生の頃のことであり、この新幹線に期待を込めて乗ったことを思い出す。大学入学のために上京した時にはまだ新幹線はなく、青いラインの入った特急「はつかり」だった。両親は苦しい経済状況の中で、特急の切符を工面してくれたのだと思う。詳しいことはよく憶えていないが、かなりの時間を費やしての上京だったように思う。新幹線開業当時、大宮からはリレー号に乗り換えなければならず、しかもホームが地下3階にある上野駅どまりだった。しかし、その不便さにもかかわらず、たばこを立てても倒れないほど揺れないといわれたその乗り心地は素晴らしいものであり、何より移動時間が大幅に短縮されたことには本当に喜んだものだ。ただ、貧乏学生の身、いつもいつも新幹線に乗れるわけではなく、特に帰省の折には、深夜に走っていた急行「十和田」だったか「八甲田」だったかに乗車したものだ。満員の車内の通路に新聞紙を敷いて雑魚寝をし、出稼ぎ労働者の人達に酒を飲ませてもらい、語り明かしながら帰省したことは懐かしい思い出だ。そこで議論し、教わったことは、自分の人格形成の重要な要素になったのだと今でも思っている。

 列車→トレイン、ということで、ジョン・コルトレーンのアルバムを一枚取り出してみた。そのころよく聴いていたアルバムのひとつ、ジョン・コルトレーンの1964年録音盤『クレッセント』である。いい作品だ。数あるコルトレーンのアルバムの中でも、特に好きなものの一つだ。CDで聴いてみたのだが、トレイにのせ、ボタンを押したその瞬間から、大学時代通い詰めたジャズ喫茶の雰囲気が部屋中に充満していった。酒のせいもあり、深夜にもかかわらず思わず音量を上げ、家人に「うるさい」と苦情をいわれる始末である。② Wise One 、何と切ない音楽なのだろう。胸がしめつけられ、どうしていいのかわからなくなる。④ Lonnie's Lament 、哀しみを湛えたサウンドである。トレーンのいいところは、どんなに切なく悲しい音楽でも、それに流されないところだと私は考えている。理詰めの演奏者トレーンには、自分の感情の発露をどこかで理によって踏みとどまるところがあるように思う。踏みとどまるがゆえに、その哀しみが横溢する。何というか、ハードボイルド。トレーンの音楽を、例えば、レイモンド・チャンドラーの小説にダブらせるのは、考えすぎだろうか……。

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私が、上京した頃の「はつかり」……。


逃避行

2010年05月19日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 269●

Joni Mitchell

Hejira

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 ジョニ・ミッチェルの1976年作品『逃避行』、70年代の彼女の傑作といっていいだろう。素晴らしいサウンドだ。ジョニ・ミッチェルその人が弾いているらしいギターもさることながら、やはり何てといっても、ジャコ・パストリアスのエレクトリック・ベースが印象的だ。ベースをリズム楽器の地位から解放し、サウンドに広がりと奥行きをもたせ、あるいはサウンドそのものの中心となるアンサンブル楽器として、ベースにまったく新しい地位を与えている。

 私のもっているCDの帯には、「すさまじいまでの迫力を小編成のバックとともに気迫に満ちた音で描き出す内面的作品。」と記されている。私もそのように認識していた。ジョニの他の作品同様、歌詞も意味ありげで興味深いものが多く、まったく「内面的作品」というべきものと思っていた。だから、深夜に歌詞カードを眺めながらひとり静かに聴いていたものだ。

 ところが、である。この2~3日天気がいいので、お昼休みに海沿いを車で走ってみたのだが、たまたまナビのカーステレオのHDDからジョニのこのアルバムが流れ、印象がまったく変わってしまった。気持ちがいいのである。爽快である。よく晴れた日の昼休み、海岸通りをドライブしながら聴くジョニ・ミッチェルの『逃避行』。最高だ。もう、「内面的作品」などどうでもいい。私はただ、爽快で心地よいサウンドの中にいる。意味ありげな歌詞もとりあえずカッコにくくっておこう。私の新しいジョニ・ミッチェルの聴き方である。


WONSAPONATIME

2010年04月23日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 258●

John Lennon

Wonsaponatime

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 あまり聴くことのないこのアルバムをなぜ取り出したのか、自分でもよくわからない。たまたま目についたのだが、なぜ素通りしなかったのかよくわからない。ジョン・レノン、秘蔵の未発表音源と銘打ったアルバム『ウォンサポナタイム』。ジョンのホームレコーディングやスタジオレコーディングのアウトテイク、ライブレコーディングなど94トラックを集めた4枚組『ジョン・レノン・アンソロジー』のダイジェスト盤である。

 この手のアルバムにしては、今聴くとなかなか面白い。⑮ 「愛の不毛」などはなかなかに感動的だ。かつて熱狂的なファンだった私だか、今は結構冷静に聴ける気がする。興味深く、改めて考えさせられることも多い。けれど、何かが変だ。この違和感は何だろう。それは恐らく、この作品の成り立ち、あるいはこの作品の発売の意図と関係があるように思う。

 帯の宣伝文句には、「ここにいるのは私の知っているジョンです。その想い出をあなたたちと分かち合いたいのです。」というヨーコ・オノさんの言葉が記されている。ヨーコ・オノさんはライナーノーツでもこう記す。

     *     *     *

「みなさんがこのディスクを楽しんで聴いてくだされば幸いです。これが私の知っているジョンです。みなさんがマスコミやレコードや映画をとおして知っているジョンではありません。あえてこう言いましょう。これが私のジョンです。ジョンはずば抜けて頭のいい人でした。ジョンは幸せでした。ジョンは怒っていました。ジョンは悲しんでしました。そしてなによりも、ジョンは世の中に自分のもつ最高のものを送り出そうといつも努力をおしまない、天才でした。私はジョンを愛していました。ジョンのような人が私たちと同じ世代に、私たちの住む20世紀に、そして同じ人間としてこの世に確かに存在してくれたことをうれしく思います。そんなジョンと人生をともにできたことは、私にとってこのうえなく光栄なことです。」

     *     *     *

 ある種の宗教的なものを感じる。偶像化である。「私の知っているジョン」を特権化することによって、ジョン・レノン自体が偶像化されている。なぜこのようなことを書くのだろうか。ジョン・レノンのような、音楽のみならず文化的ムーブメント全体に影響を与えたアーティストには、「偶像化」がつきまとう。しかし、そもそもジョン・レノンは、例えば本アルバムにも収録されている③ God(神)においてそうだったように、すべての偶像崇拝を否定しようとしたのではなかったか。もしかしたら、ヨーコ・オノさんも「私の知っているジョン」をひきあいにだすことで、ひとりの人間としてのジョン・レノンを強調し、偶像化を拒否しようとしたのかも知れない。しかし、例えば先のライナーノーツの文章は、現実には逆の効果をもたらしているように思う。「ジョンのような人が私たちと同じ世代に、私たちの住む20世紀に、そして同じ人間としてこの世に確かに存在してくれたことをうれしく思います。」とは、明らかに言いすぎである。「私の知っているジョン」を排除しても、ジョン・レノンは十分に刺激的で魅惑的なミュージシャンであり、ロックンローラーなのだと思う。素晴らしいロックンローラーのひとり。それで十分ではないか。ジョン・レノンも本当はそれをのぞんでいたのだと、私は思う。

 そう考えなければ、ジョン・レノンを「楽しんで聴く」ことなどできないのだ。

     *     *     *

[ジョン・レノン関係記事]

ジョン・レノンのイマジン

ジョン・レノン死亡記事とコメント


春の如く

2010年04月20日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 257●

Ike Quebec

It Might As Well Be Spring

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 わが東北地方は今日は寒かったのだが、庭の梅は満開で、芝桜も咲き始めた。ふきのとうも大きくなり、ハナミズキやハナカイドウもつぼみがでてきた。確実に春ではある。という訳で、私の頭の中に《春の如く》という言葉が浮かび、CD棚からとりあえず目についた一枚を取り出してみた。

 アイク・ケベックの1961年録音作品、『春の如く』である。オルガン・トリオを従えた、ワンホーン作品である。アイク・ケベックは、1940年代に活躍したテナーマンだが、途中、長いブランクがあり、薬におぼれたり、ブルーノートのスカウトをやったりしていたようだ。バド・パウエルやセロニアス・モンクも実はブルーノートのスカウトだった頃の彼が発掘したアーティストらしい。1950年代末に復活して、ブルーノートに録音を残しているが、1963年肺ガンのためなくなった。

 いい音色だ。ブルージーでソウルフルだが、同時にふくよかで包み込むようなソフトな音色だ。フレージングもなめらかでよどみがない。フレディー・ローチのオルガンが突然、奇抜な音色でいたるところに登場するのがやや耳ざわりだが、これがよいという人もいるのだろう。それを差し引いても、良いアルバムだと思う。

 彼の名はある程度コアなジャズファンには知られているだろうが、一般には決して有名ではあるまい。彼のような聴きやすい、しかも正統派の音楽に一般の人々がたやすく到達できないのは残念である。しかし、ある種の「修行」ののち、理解が深まりのめり込んでいくJAZZという音楽にあっては、それは宿命なのかも知れない。


ブルースがいっぱい

2010年04月01日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 245●

Johnny Hodges

Blues-a-Plenty

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 すこし前に、原武史『昭和天皇』(岩波新書)という本を読んだのだが、中々面白い本でしばらくぶりに知的な興奮をおぼえた。以来、ここ数週間、日本近代の天皇や皇室の問題を違った角度からもう一度整理しなおしてみたいという欲望にとりつかれ、同じく原武史『大正天皇』(朝日選書)、『松本清張の遺言』(文春新書)、原武史・保坂正康『対論・昭和天皇』、小谷野敦『天皇制批判の常識』(洋泉社y新書)などを立て続けに読み、さらには以前読んだ吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)、近代日本思想研究会『天皇制論を読む』(講談社現代新書)、ハーバード・ビックス『昭和天皇/上・下』(講談社)、『昭和天皇独白録』(文春文庫)など、主に一般向けの書物を本棚から引っ張り出して次々に再読した。明確な目的意識をもって集中的に本を読むなどしばらくぶりだった。日本近代史の専攻などではない私にとっては、論文やレポートにまとめることなど毛頭念頭になく、ただ自分なりにこの問題を整理してみたいという欲望を満たすためだけの行為である。近代天皇制という政治構造や、それへの肯定や否定を前提としたものではなく、まったく別の視点から考えなおしてみたいという欲望だ。考えるべきことはたくさんあり、頭の中は混乱を極めているが、不思議に爽やかな気分だ。目的を意識を持つことによる、自分が無為に生きているのではないという感覚がそうさせるのだろうか。

 *  *  *  *  * 

 今日の一枚は、スイング系ジャズのアルトサックス奏者、ジョニー・ホッジスの1958年録音作品、『ブルース・ア・プレンティー』だ。これも最近、「verveお宝コレクション」からジャケットが気に入って購入したもののひとつである。

 一聴、いいなあ、と思う。① Don't Know About You から哀愁のムード全開だ。全編にわたって、のびやかで優しさに満ちたサックスの音色に加え、やや大袈裟なビブラートを多用した、歌心溢れるフレージングが何とも好ましい。こういうアルバムは、20代の頃に聴いていたら、古いスイング系の退屈なアルバムとして片付けていたかも知れない。けれども今は、こうした情感豊かなプレイが心のひだに沁みてくる。自分から進んでスイング系のものを買うことはなかっただろうが、お洒落で美しいジャケットが私をこのアルバムに引き合わせてくれた。ジャケ買いの効用のひとつである。


WATARASE

2009年02月13日 | 今日の一枚(I-J)

◎今日の一枚 231◎

Fumio Itabashi(板橋文夫)

WATARASE

(板橋文夫アンソロジー WATARASE)

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 興奮している。昨日届いたCDを聴いている。まだ通して聴いていないのに、もうこの文を書いている。それほどまでに興奮しているのだ。聴いているのは、板橋文夫の『板橋文夫アンソロジーWATARASE』という作品だ。発売されたのは2005年、2枚組みCDである。DISK1は板橋のベスト集、DISK2は名曲「WATARASE」の異なるバージョンが7つ入っている。DISK2に収録されているのは、なんと「WATARASE」だけだ。「WATARASE」はDISK1の冒頭にも収録されているから、「WATARASE」だけでなんと8バージョン入っていることになる。繰り返すが、「WATARASE」だけで8バージョンだ。一体、こんなアルバムを誰が買うのだろうか。よほどの板橋文夫ファンか「WATARASE」ファンであろう。そして、私はそれを買ったということだ。3150円だった。迷うことはなかった。そして、それを買い、聴いた今、私は興奮している。

 以前にも記したことではあるが(→『WATARASE』、『一月三舟』)、10年程前、隣町の小さなホールで見た板橋のコンサートは、衝撃的だった。板橋の演奏を聴いたのはその時がはじめてだった。板橋の演奏はすざまじかった。左手が創り出すうねるようなビートの中で、右手のメロディーが自由自在にかけめぐっていく。時折使用するピアニカ(鍵盤ハーモニカだ)の演奏がまた凄かった。ブルースフィーリング溢れる響きだ。魂が入ると、ピアニカなどという楽器があれほどまでに輝かしいサウンドをつくりだすとは、はっきりいって信じられなかった。金子友紀という若い民謡歌手が一緒だったが、彼女の歌う「WATARASE」が実に感動的だったのだ。民謡歌手の歌にあれ程の感動を受けるとは予想だにしなかった。それ以来、この民謡歌手の歌う「WATARASE」をずっと探していたのだ。10年もの間だ。そして、このアルバムには民謡歌手の歌う「WATARASE」が入っている。DISK2-⑥ 「交響詩『渡良瀬』~ピアノと民謡と交響楽のための」がそれだ。歌っているのはもちろん、金子友紀だ。

 10年ぶりに聴く、民謡歌手の歌う「WATARASE」いや「渡良瀬」は、私の期待を裏切らなかった。私の聴いたコンサートの時のものより、ずっと声が伸びやかで透き通っているように思う。この演奏を聴いて、「ああ、やはり私も日本人なのだ」などという感慨を私は持たない。そんな奴は下劣な人間なのだと私ははっきりと確信をもって思う。「日本」や「日本的」なものなどというものは、アプリオリに存在するものではない。はじめからあるものではないのだ。「日本」などという偏狭なもの以前のもっと土着的な感受性がそこにはある。重要なのは、そういったビートや旋律がそこにあるということだ。死んでしまった網野善彦にならっていえば、それは日本列島に育った音楽なのであり、「日本的」なものなどでは決してないということだ。

 このアルバムには他にも魅惑的な「WATARASE」が数多く収録されている。何せ、繰り返すが、「WATARASE」だけで8バージョン入っているのだ。ひとつひとつの「WATARASE」を聴くたびに、驚きと発見の連続である。「演奏」とは、これほどまでに曲に魂を吹き込むものなのか。そのどれもが、個性的で、刺激的で、感動的である。「WATARASE」が8バージョンも収録され、しかもDISK2はすべて「WATARASE」だけであるという異常事態にもかかわらず、恐らく私は、これからもこのアルバムを、とくにそのDISK2を何度も再生装置のトレイにのせるだろう。それほどまでにこのアルバムは感動的であり、そして私は、「WATARASE」という曲が好きなのだ。


天使の声

2009年01月30日 | 今日の一枚(I-J)

◎今日の一枚 226◎

Jimmy Scott

But Beautiful

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 ジミー・スコットが評価を受けるようになったのは、久々のアルバムを発表した1992年以降のことだ。それまでの約20年間、彼は全くの不遇の時代を過ごさねばならなかった。ミュージシャン仲間から絶賛され、多くの大物シンガーに影響を与えた存在なのにである。だから、ジミー・スコットは「伝説のシンガー」という言葉で形容される。不遇の時代が長かったのは、レコード会社とのトラブルや私生活の混乱のためらしい。「天使の声」というのも彼を表す言葉だ。病気で声変わりしない体質を克服し、少年の声はそのままにジャズシンガーとしての自らのオリジナリティーにまで高めていったからである。実際、彼の声は他のどんなシンガーとも違う、まったく独特の声だ。しかも、その声をたんなる美しい少年の声ではなく、まったく独自の説得力をもつ表現手段にまで昇華した歌唱技術が素晴らしい。

 「天使の声」「伝説のシンガー」……。ジャズ的物語である。デカダンスの香りのする絵に描いたようなジャズ的な物語だ。きっと、本当の話なのだろう。心のどこかででき過ぎた話だと疑いながらも、私は基本的にこのようなジャズの伝説が好きだ。ジャズにはこのような伝説が必要だ。それが仮に虚構であってもだ。私はそう思っている。

 ジミー・スコットの2001年録音作品、『バッド・ビューティフル』。いいジャケットだ。まるで何かに祈りを捧げるような、意味ありげな写真だ。誠実で、敬虔で、何よりまじめな雰囲気が好ましい。訥々としたジミー・スコットの声と歌はとても印象的だ。心が落ち着く。ひとつひとつの言葉を噛み締めるような歌唱である。その歌は、間違いなく、ワン・アンド・オンリーな独特の世界を形づくっている。私の英語が堪能であれば、もっとすごい感動を得られるに違いない。

 しかし、このアルバムを聴いて一番印象的なのは、サイドメンたちの演奏の素晴らしさである。

Wynton Marsalis(tp),Lew Soloff(tp),Eric Alexander(ts),Bob Kindred(ts),Renee Rosnes(p),Joe Beck(g),George Mraz(b),Lewia Nash(ds),Dwayne Broadnax(ds),

 すごいメンバーである。すごいメンバーたちであるが、彼らは決して過剰な自己主張をせずに、ジミー・スコットの歌にぴったりと寄り添い、しかし与えられたスペースの中できちっと言いたいことをいい、印象的なプレイを展開する。HMVのレビューでは② Darn That Dream におけるウイントン・マルサリスの演奏について、「歌伴の最中にこれほどのソロを聞いたのはトランペットではクリフォード・ブラウン以降記憶がない。」とまでいい、最大限の賛辞を贈っているが、それも決して誇張ではないと思うほどに素晴らしい。しかも、それぞれのプレイが互いに邪魔しあうことなく融合し、歌を中心に1つの演奏として大変聴き易いまとまりをもっいるのが素晴らしい。

 しばらくぶりにトレイにのせたが、昨日からずっとジミー・スコットを聴いている。このままでは明日も聴いてしまいそうだ。この昂ぶりを押さえ、心と頭を整理するために、私は今、この文章を書いている。


ジャズとしてのジョニ・ミッチェル

2009年01月22日 | 今日の一枚(I-J)

◎今日の一枚 221◎

Joni Mitchell

Mingus

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 ご存知、カナダ生まれのシンガーソングライター、ジョニ・ミッチェルの1979年作品『ミンガス』。もともとはチャールス・ミンガスとの合作アルバムとして制作されていたが、途中でミンガスが亡くなり、結果的にジョニがミンガスに捧げる追悼アルバムとして発表されたというものである。

 昨年の秋からしばらくの間、なぜかジョニ・ミッチェルがマイブームだった。以前から持っていたいくつかのアルバムを聴きなおし、いくつかのアルバムを新たに購入して聴いてみた。このアルバムを知ったのは、後藤雅洋『ジャズ喫茶四谷「いーくる」の100枚』(集英社新書:2007)によってである。この中で後藤氏は、「《いーぐる》の客層はかなり柔軟で、ロックミュージシャンのアルバムをかけたからといって特に拒絶反応はなかった」と語り、「《いーぐる》の客層の音楽的レベルを象徴する名盤」として紹介されている。有名ジャズ喫茶で、ジャズ以外の曲が常時リクエストの上位だったという話を聴いて、一体どんなアルバムなのかと興味が高まったのだ。

 衝撃的ともいえる名盤である。ジョニ・ミッチェルの歌の表現力、ジャコ・パストリアス、ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコックといった参加プレーヤーの描き出す不安定で不思議な世界。深夜にひとり静かに聴いていると、暗闇の中から青白い炎が立ち上がってくるような、怪しく深遠なイメージが頭をよぎる。稀有なアルバムである。後藤氏は、ジョニについて「歌い方は別にジャズ的ではないのだが、これだけの歌手ともなるとそういったことはあまり問題にならなくなってくる」といっているが、私には非常にジャズ的な歌い方に思える。理論的なこと技巧的なことはよくわからないのだが、印象としては高度にジャズ的に思えるのだ。参加プレーヤーたちの演奏も含め、例えばマイルス・ディヴィスが『イン・ア・サイレント・ウェイ』以降のいくつかのアルバムで表出したような世界観との親近性を感じる。不安定で落ち着きが悪いのだが、どこか安らぎを感じるような世界観だ。そういった意味では、当時のジャズの方向性の中に位置づけられる正統的ジャズ作品と言えなくもない。そうだとすれば、《いーぐる》のお客さんたちについても、柔軟性がどうのこうのというより、いいものをきちんと評価できるセンスを持っていたということなのだろうと思う。


リトル・ジャイアント

2008年01月19日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 208●

Johnny Griffin

The Little Giant

Watercolors0004  何という迫力、何というパワーだ。ジョニー・グリフィン(ts)、ブルー・ミッチェル(tp)、ジュリアン・プリースター(tb) の3管フロントが、圧倒的な重厚感で迫ってくる。音質も良い。ちょっとエコーがかかったようなアコースティック感が強調されたサウンドだ。グリフィンの伸びやかなブローがなめらかに響く。さほど高価ではない自宅のステレオ装置であるが、まるで、ジャズ喫茶にいるようだ。ウイントン・ケリーのピアノもよく昔ジャズ喫茶で聴いたような音色だ。私はただ、その音の洪水の中にみをまかせるのみだ。

 小柄な身体で大きなプレイをするリトル・ジャイアント、ジョニー・グリフィンの1959年録音作、『リトル・ジャイアント』(Riverside)だ。仕事の忙しさで頭が混乱して整理がつかない時、私はよくこのような音の洪水アルバムを大音響で聴く。脳みそをいったんぐちゃぐちゃにかき回してリセットしするのだ。不要な思い込みや先入観、思考のパターンから解放され、意外といいアイディアが思いつくことがあるものだ。

 ④ 「63丁目のテーマ」が好きだ。かっこいい。これぞ、ハード・バップ。ハードバップとはもともとこういうかっこいい音楽をいうのだ。いつしか私は、身をよじり、クビをくねらせ、手足でリズムを取り、昔ジャズ喫茶によくいた、「自分の世界に入っちゃったオヤジ」になっている。


彼女の名はジュリー

2008年01月07日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 204●

Julie London

Julie Is Her Name Vol.1

 12/29~1/3の年末・年始の休みは、例年になくゆっくりできたように思う。ここ数ヶ月、この拙いブログの更新さえ困難な程忙しかったからそう感じたのかもしれないが、実際、大掃除などの雑事をこなしいつつも、物理的にも精神的にもゆったりとした時間を過ごせたように感じる。そういう心持ちで聴く音楽は格別であり、心にゆっくりと染みわたってくるものだ。

 ジュリー・ロンドンの1955年録音作品、『彼女の名はジュリー(Vol.1)』。年末に聴いたものの中で、私の心と身体に最も沁みた作品である。ジュリー・ロンドンを初めて聴いたのは昨年のことだったが、以来ずっと関心をもっている。どの収録曲も独特の雰囲気をもち素晴らしいが、やはり世評の高い「クライ・ミー・ア・リヴァー」は出色である。プレーボーイに悩ませられる女性のブルーバラードであり、原曲の狂おしい雰囲気を見事に表出した名唱である。1955年に全米ポピュラー・チャート9位になったヒット曲だ。

 ジュリー・ロンドンの歌唱は、そのハスキーなヴォイスから、《セクシー》とか《妖艶》とか《官能的》ということばで修飾されることが多いが、むしろ私はハスキーなヴォイスにもかかわらず不思議な透明感を感じる。それは、ベタベタしない質感であり、理知的ななにものかであるように思う。ややうがった見方をすれば、ある種の誠実さといっていいかも知れない。ジュリーは、同時代のセックスシンボル、マリリン=モンローと比較されることにある種の反発心をもち、「モンローと私は正反対のタイプ。モンローはセックスシンボル、私は主婦母親タイプよ」と語ったというが、そこにジュリーの理知的な側面を垣間見ることができると思うのは、考え過ぎだろうか。(良妻賢母が理知的だといっているわけではありません。念のため。)

 バックを務めるのは、バニー・ケッセル(g)とレイ・レザーウット(b)だ。名手バニー・ケッセルのアクセントのあるギターが見事だが、個人的には以前取り上げた『ロンリー・ガール』のアル・ヴィオラの方がジュリーにはよりマッチしているような気がする。


ギター殺人者の凱旋

2007年09月02日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 200●

Jeff Beck

Blow By Blow

675_1   「今日の一枚」もNo.200となった。これをはじめたのが昨年の7月なので、1年と2ヶ月ほどの期間に200枚の作品にコメントしたわけだ。この間、他の記事も書いたので、飽きやすい私にしてはよく続けてきたなという感じだ。今日の一枚は、ロック作品である。当時は、クロスオーバーなどともいわれた作品である。No.200の記念として特別の作品を取り上げようというわけではないのだが、何故だが今朝からロックっぽいものを聴きたいという欲望が渦巻いており、たまたまレコード棚の目につくところにあったのがこのアルバムだ。

 ジェフ・ベックの1975年作品『ブロウ・バイ・ブロウ』、高校生の頃、繰り返し聴いた一枚だ。この作品に『ギター殺人者の凱旋』という日本タイトルをつけたのは誰だろう。他のブログに書かれていたのだが、アメリカでこのアルバムが発売された時に出た広告のコピーが「The Return Of The Axe Murderer」となってるのを当時のCBSソニーの担当者が見つけて訳し邦題にしたということらしい。気持ちは理解できないでもないが、やはり今となっては、ピントはずれなタイトルというべきだろう。

 昔、ヤードバーズ出身の三大ギタリストという言葉があったが、ギターという楽器そのものを追究したのは、結局のところ、ベックだけだったのではないだろうか。クラプトンは歌物の世界に開眼してヒットメーカーになり、ジミー・ペイジはギターアンサンブルの可能性を追究した。それに対して、ベックはエレクトリック・ギターという楽器を使ってどこまで表現を広げられるかという、ギター表現の可能性に取り組んできたように思える。その結果、彼はロックの世界に軸足を置きつつも、クロスオーバーとかフュージョンとか呼ばれた世界に接近することになる。私自身がそうだが、このアルバムを通して新しい音楽分野に目を開かれたというリスナーは意外と多いのではなかろうか。

 かつては鑑賞というよりギターの教科書として聴いていたこの作品だが、改めて聴きなおしてみると、思いのほか新鮮である。未だコンピュータ音楽などのない時代、当時のテクニックを駆使して、ギターという楽器ひとつで音楽世界を構築しようとしたベックの冒険的試みが手に取るようにわかると同時に、音楽それ自体も感動的である。よくできた秀逸な作品である。

 ベックのお気に入りのギタリストであるロイ・ブキャナンに捧げたという名曲「哀しみの恋人たち」は、やはり今聴いても心に染み入るものがある。高校生の頃、コピーしたこの曲は、今でもアドリブのひとつひとつまで口ずさむことができる。チョーキング、プリングオフ、ハンマリングオン、トリル、スライドという基本技術をはじめ、ピッキングハーモニックスやボリューム奏法といったテクニックが実に効果的に使われている。テクニックが表現の手段として、演奏に絶妙のアクセントをつけているところがすごい。ベックは、テクニックをひけらかすようなタイプのギタリストではないのだ。

 ロックからジャズへと興味が変わって30年近いが、『ブロウ・バイ・ブロウ』は今でも聴くに値する作品だ。今日聴いてみてそう思った。私の所有するLPの帯には、小さな文字で次のように書かれている。

「ピッキング、フィンガリング、スライディング、ジェフのギターが唸りをあげる! BBA解散後2年間の沈黙を破って発表されたロック・ギター史に燦然と輝く傑作アルバム」

 実に懐かしい文句だ。

 


ロンリー・ガール

2007年07月06日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 178●

Julie London

Lonely Girl

Watercolors0009_3  ジュリー・ロンドンを聴くのは初めてだった。ジャズ決定盤1500シリーズのキャンペーンで、CDを数枚もらった中の一枚だ。大正解だった。その魅惑的なジャケットゆえ、ジュリー・ロンドンには以前から興味はあったのだが、なぜか今日まで聴く機会に恵まれなかったのだ。

 ジュリー・ロンドンの1956年録音作品、『ロンリー・ガール』。アル・ヴィオラのギターのみをバックにジュリーが切々とした女心を歌い上げるといった趣向だ。いい作品だ。歌い上げるというより、ささやくといった方が適切だろうか。ジュリーはちょっぴりかすれた声で胸いっぱいの想いを込めて歌っていく。まるで、自身の胸のうちをうちあけるかのようにだ。ギターとボーカルというシンプルな構成ゆえ、ひっそりとした静けさとともに、歌の臨場感がダイレクトに伝わってくる。ジュリー・ロンドンという歌手を今まで聴いてこなかったことが実に悔やまれる。今後、ジュリー・ロンドンを探究することになりそうだ。

 1926年生まれのジュリー・ロンドンは、はじめ映画女優としてデビュー、いくつかの作品に出演するが幸運には恵まれなかったようだ。その後結婚して二人の子をもうけるも離婚、1950年代に歌手に転向し、50年代から60年代に華々しく活躍した歌手だ。活躍の陰には、後に夫となるジャズ・ピアニストのボビー・トゥループとの出会いがあったようだ。ボビーの指導を受け、本格的なジャズシンガーとなったわけだ。ジュリーは、前年に亡くなった夫ボビーの後を追うかのように、2000年10月18日に亡くなっている。