ひのっき

あったかくてぐっすりでごはんがおいしくてよかったねうれしいねなんて小さなしあわせ探し雑記

学校給食とララ物資 その1

2019年01月22日 | れきし

テーブルの上に学校給食の献立予定表があったのでへ―っと見てみました。
ジャンバラヤ、たらこスパゲティ、チョコチップパン、ミモザサラダなどいかにも美味しそうな今風のメニューが並んでいます。
おいらが小学校だったころの給食って、もっとこう、地味ーな茶色いおかずばっかりだった気がするなあ。
学校給食も時代ごとに変化しているんですね。

さてさて学校給食の歴史を語る上で、忘れてはいけない活動があります。

「ララ物資」です。

1945年に第二次大戦が終戦すると、日本は極度の食糧不足に陥りました。
多くの国民が満足に食べられず、特に都市部では餓死者も出たといいます。
子供たちも例外ではなく、ひもじいお腹をさすりながら学校へ通いました。
日本の子供たちは慢性的な栄養不足に陥ります。

そんな状況を知り、アメリカで立ち上がった一人の日本人がいました。
浅野七之助氏。
サンフランシスコ在住のジャーナリストです。

アメリカ国内の支援組織等を回り日本の窮状を訴えますが、なかなか相手にされません。
当時は対日感情が最悪で、そもそも日本人の言うことを聞いてもらえません。
日本人から見ると、太平洋戦争って強大なアメリカが弱小日本を一方的に打ち負かした戦争で、アメリカの損失って微々たるものではとのイメージがあります。
しかし実は太平洋戦線でもアメリカ兵が10万人以上戦死しており、かなりのダメージを負っています。
つい最近親族や友人を失った米国民が相当数アメリカ社会に暮らしており、「日本が困窮してる?はあ?自業自得じゃね?」の雰囲気でした。

個人の力ではどうにもならない。日系人たちの力を結集できないか。
「一食を分かち、一日の小遣いを割いても、援助することは、良心的な義務」との激を飛ばして、1945年11月「日本難民救済有志集会」を開きました。
ところがこの集会の参加者はほんの10人足らず。
サッカーチームも作れないこの小さな小さな決起集会がしかし、後に大きなうねりの源流となって日本の子供たちを救います。

長くなっちゃったので今日はここまでにします。その2に続きます。