ひのっき

あったかくてぐっすりでごはんがおいしくてよかったねうれしいねなんて小さなしあわせ探し雑記

学校給食とララ物資 その2

2019年01月23日 | れきし

浅野氏らは1946年1月に「日本難民救済会趣意書」を起草し、現地邦人紙等を通じてサンフランシスコ在住の日系人へ寄付を呼びかけます。
戦争中は強制収容所に収監されてしまっていた日系人たちは、当時はまだ自分たちが食うや食わずやの貧困状態でした。
しかし故国の同胞たちのためにと歯を食いしばり、節約に節約を重ねながら浄財を捻出しコツコツと集めていきます。

そうして可能な限りの救援物資を買いそろえ、いよいよ日本に持っていこうというその時に、大きな問題が発生します。
日本へ救援物資を送る仕組みがないのです。

当時アメリカにはACVAFSという巨大な慈善団体があり、海外への人道支援を行っていました。
浅野氏らはこのACVAFSに日本への救援物資輸送ができないか打診します。
しかし同組織は活動対象がヨーロッパのみとの規定があり、日本への運搬ができなかったのです。

こうなれば自力で組織を立ち上げるしかない。
「日本難民救済会」を結成し、大統領直轄の救済統制委員会に公認するよう陳情します。
「はあ?難民救済?ジャップが何言っちゃってんの?」ケンもホロロな委員会。
頭を抱える救済会メンバーの前に、救世主が現れます。

E.B.ローズ女史。

戦前には教師として東京で教鞭をとったこともある、高邁な理想と卓越した行動力を併せ持つキリスト教の宣教師です。
戦中は強制収容所に収容された日系人たちを援助しつつ、日本爆撃停止を訴える平和促進運動を進めるなど、猛烈な反日感情渦巻くアメリカ社会の中でも敵味方分け隔てない愛を行動で貫いた信念の女性です。
ローズ女史は「日本難民救済会」の申請を知るといち早くこれを取り上げ、ライセンス取得のために奔走しました。

そして、1946年9月遂に認可が下ります。
日本へ救援物資を送ることのできる初めての組織。
LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia)の誕生です。

キリがいいので今日はここまでにします。その3に続きます。